おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

621_ひしみー043

04 シッダールタ太子の問題意識

前回( 619_ひしみー041 )、この章( 04 シッダールタ太子の問題意識 )全般について、気になる以下のことを書くとした。

1.弱肉強食が自然界の法則と一般化されたのは本当に戦後(昭和 30 年頃)なのか

2.弱肉強食と食物連鎖の境界線はどこで引くか

以上を、最近 3 回( 618_ひしみー040・619_ひしみー041・620_ひしみー042 )にわたって少々見てきた。

要は、私個人としては、
弱肉強食が一般化のように常識として是認され出したのは何も昭和 30 年頃には限らないのではないか、
ということと、
食物連鎖と弱肉強食の境界線は実は曖昧なところがあり、厳密に引けるものではなく、完全な別物扱いはできない、
と言いたかった訳です。

ひろさんの理屈だてはどういうことなんでしょうかね。

ただ、ひろさんの、弱肉強食により、強者ばかりがわがもの顔に振る舞い栄え、弱者だけが忍従を余儀なくされ、泣きの涙に暮らすことだけは何とかしたい、というお気持ちだけは少なくとも感じることができます。

しかし、このような弱肉強食の現状に、勧善懲悪(?)のような形で、仏教を介入させることは間違っている、それは、俗流仏教の考え方であり、唯物論なら俗流科学だ、と言っているように見えます。

その典型的な例を、日本霊異記に見い出し(?)、かなりこれをこき下ろしている。

日本霊異記について、勝手な感想を書かせてもらえば。

あれは、ことわざ辞典ではないけれど、おごる平家は久しからず、のように、とにかく、良いことをしなさい、そうすれば何らかの形で報われますよ、世の中はこうした善因善果、悪因悪果のようになっているから、つつましく(?)、他人を押しのけないで(?)、正しく生きましょうね、必ず、世の中は教訓のようにできているのだから、といった感じがします。

その中に、夢物語(ファンタジー?)的な要素を付け加え、おとぎ話風に仕上げたものが日本霊異記のように読めなくもない。

しかし、非常に残念なことに、この世の中は、善因善果、悪因悪果が公式のようにわかりやすく完結するような単純な形にはなっていない。

そうとしか思えない。

悪いことをして、自由奔放に生きて、やりたい放題にしても、何らそれらしき悪い報いのなさそうな人もいるように見えるし、良いことばかりをしているのに、努力は決して報われず、不幸や災難にあえいでいる人もいるように見受けられるからです。

つまり、この世、今生(今回の人生)では、善因善果、悪因悪果の因縁因果の転回の法則が必ずしもそのままには機能していない、むしろ、その逆ではないかとすら思えることが多々あるのではないか、ということです。

この世が不平等・不均衡に満ち(?)、不幸や災難があり、仏教でも火宅の世とされているのは、なぜか。

日本霊異記のように良いことをするのを結果的にすすめるのはいいけれど、上記のようなこの世の矛盾した有り様に照らし合わせた時に、いささか説得力に欠けるのは否めませんね。

因縁因果の大半は世を隔てて完結すること(日本霊異記で意識されているのは直近の過去世である前世のみで、それより前の、前々世、前々々世、・・・は考えていないように見える)。

この世はこうした無作為に(?)こうした過去世の因縁のかなりの部分を清算する場になっていること。

現代に限らず、古(いにしえ)の人々のかなりの人達が、人間=肉体人間であるとの肉体人間観に縛られ、物質という目に見える、いわば、五感に認識できるものにしか価値を見いださない唯物論の思考に縛られていること。

日本霊異記は、これらを明確には打ち出していない(ほのめかす話はある)から、何となくフワン、フワンとして感じるんですよね。

ひろさんは、弱肉強食に仏教を勧善懲悪的に持ち込み説教をするのは誤りである、として、如実知見による自然淘汰(?)の食物連鎖のような有り様に答えを見出だそうとしているように見えます。

しかし。

如実知見。

そしてこれにより浮かび上がる食物連鎖

この食物連鎖すら、実はシッダールタ少年(少年時代のお釈迦さん)が感じたようなむごさ、残虐さがある。

むごさや残虐さを含んでいる。

シッダールタ少年がむごさを感じたそもそもの意味合いは何か?

それはあらゆる命あるものは、生きとし生けるものは、肉体人間から虫に至るまで、あらゆるものは生きたいとして生きているものであり、その命を外部の命を持つ生き物が勝手に奪うことの非情さを、認めることができない、ということになるでしょうね。

自他一体感として考えれば、同じ命を宿す者として、虫に思いを至せば、すなわち、虫に自分を投影させれば、簡単に命を奪われたくはないのに、いとも簡単に小鳥に殺されて食べられてしまう。

虫の立場になれば、虫に自らの思いを至らせるならば、恐怖でおそろしくて、とてもやりきれたものではない。

その小鳥さえも、猛禽類に同じように殺されて食べられてしまう。

小鳥に思いを至せば、やはり、同じようにやりきれない。

シッダールタ少年が、どのように考えていたかはわかりませんが、このように、命を与えられている者は、等しく生きたいとして生きており、それを他者がその勝手な都合で奪うことは許されない、命は何事にもかえがたい尊いものだ、再生はできない、と考えていたのではないでしょうか。

だから、食物連鎖、しかも弱肉強食により、強者が弱者をあっさりと殺して次々に補食してしまう姿を見ることに耐えられなかった。

ひろさんの話の持って行き方は、この食物連鎖は、どのようにむごかろうと、残虐だろうと、なるようにしかなっていないんだ、つまり、因縁因果の縁起だ、こうしたものなのだ、という風にして、お釈迦さんの説いた縁起に結びつけて、このむごさや残虐さを忘却しよう(?)としているように、見えなくもない。

しかし。

忘却はできませんね。

はっきり言ってしまうと、この理由は、すべての造物主、創造主たる神様にしかわからないと思います。

生きたいと思っているであろう個々の命が、いとも簡単に、より強い者によって奪われる。

その運命を翻弄される。

それはなぜか?

なぜに、こんなむごい、残虐なことが連鎖しているのか?

これは神様にお伺いしなければ、本当のところはわからないはずです。

そうでしょう?

肉体人間の私達には、明確な理由を説明できるはずがありません。

できるとすれば、ご都合主義のいい加減なものにしかなりませんよ。

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・残虐~ざんぎゃく~人や生き物対してむごく乱暴の限りを尽くすさま。
(用例)残虐な行為。

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①追記: 2021/12/13 19:20
②追記: 2021/12/13 19:25
③追記: 2021/12/13 19:27
④追記: 2021/12/14 04:45
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文と注釈を加筆・訂正しました。