おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

666_ひしみー087

前回( 665_ひしみー086 )までで、とりあえず、ひろさんとは別に、

お釈迦さんに出家を決意させた出来事として、以下の 3 つとした。

これが一般的に仏教でお釈迦さんの出家にあげられる要因かと思う。

1.樹下観耕(じゅかかんこう。先の食物連鎖の話。一般的には弱肉強食とされる。ひろさんのご本にはこのエピソードは紹介されているが、一般的な樹下観耕という用語は使われていない(出ていない))

2.四門出遊(しもんしゅつゆう)

3.歓楽による厭世感

まあ、普通に見ると(?)、お釈迦さんの出家の理由を満遍なく網羅する形となっているので、偶然にしてはできすぎている(そもそも四門出遊からしてが、あまりにも出来すぎている話に思える)から、やはり、こうした形に守護の神霊さんが巧みに導かれたとするのがわかりやすい、実に上手く導かれている、と個人的には考える訳です。

ただ、一般的には、「たまたま」あるいは「偶然に」ああした様々な要因が重なって、出家に結び付いたとされているように見えます。

ひろさんが、出家の話をもったいつけているのは、やはり、偶然にしては出来すぎている、これといった強烈な決め手がない、と無意識にお感じになっていたからじゃないですかね。

だから、ご本の中でも、話が堂々巡りになったり、自らわからない(?)ようなことをお書きになったりされていたのではないかと思います。

さて、今回の話も、一般的な仏教の話からかなり脱線するので、一般的な仏教にしか興味がない方は飛ばして(=省略して)下さい。

お釈迦さんが、だいぶ前
653_ひしみー074
07 禅定と苦行、そして中道
・真実の仏教者に苦行は不要 
のところで、書いたことに関することです。

私は、そんなに激しい修行をして、もしも、何かのはずみに死んでしまったらどうするの? 元の木阿弥ではないの? ということを書きました。

悟りを開く前に死んでしまったら、意味がなくはないか?、と。

一方、ひろさんは、苦行の打ち切りの訳を、後付けの理由として、「苦行の麻薬性」に求めていました。

お釈迦さんは、死ぬほどの大変な修行をしたけれども、それが無駄だと悟って、苦行を打ち切った訳として、修行に打ち込みすぎると、人は修行中毒になるからというように。

これに関するちょっと一般的な仏教では出てこない特殊な話になります。

修験道の話と言えますか。

五井先生のお話なのですが、要は悟りには、いかなる神通力も、肉体の死も、関係ないというお話です。

そこの関係の話を、五井先生の書物から引用します(引用に関して一般的な仏教関係の本によくあるようなウルサイ縛りはまったくなかったので。なお、内容は適宜改変します。ご了承下さい)。

その前に。

私は、修行をして、志半ば(=悟りを開けない)で死んでしまったら意味がないのではないの? と書きましたが、人間を肉体人間、肉体だけに限らずに考えるならば、もちろん、その先が続くので、死んでしまっても、肉体が無くなっても、悟りを開けない場合がある、それくらい悟りを開くのは大変という話です。

ちょっと前置きだけでもかなり長くなったので、申し訳ありませんが、本編は次回からとします。

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追記: 2022/02/21 00:17
〜訂正内容〜

誤記を訂正しました。すみません。