書こうかどうか迷っていたが、今書いておかないと忘れてしまうかもしれない内容があるので記しておく。
話が前後して申し訳ないのだが、 沙門ガウタマ(お釈迦さん)とともに修行していた 5 人の修行仲間が、お釈迦さんを見捨てて去っていく話がある( 671_ひしみー092 )。
「ガウタマよ、君は堕落した。
われわれはそんな人間とともに修行することはできない。
君は君の道を行くがよい。
われわれは君とは別の道を行く」
これについての補足的な話になる。
だいぶ前に、中村さんの著書(中村元著 原始仏典 ちくま学芸文庫)を読んでいく途中で触れた( 180_原仏11ー2 二 尼僧の告白(お釈迦さんのお弟子さんの告白の女性版)でキサー・ゴータミー尼の告白について書いた文章)、落合誓子さんの著書( 落合誓子著 女たちの「謀反」仏典に仕込まれたインドの差別 解放出版社 )の中に、これに関連するかもしれないと思える話があった。
なので、あの修行仲間の 5 人がお釈迦さんに見切りをつけて去っていった理由にかかわる一つのものの見方として、ご参考までに記しておくことにする。
この本自体には、機会があれば後に触れようかなとも考えていたのだが、実際にそうするかどうかは今のところ決めていない。
なので、とりあえず、ここで触れておくことにする。
その前に。
まったくの独断と偏見になるが、個人的にこの落合さんのお考えの概要に触れておく。
以下の内容は、あくまでも学識のない素人の大雑把な分析であることをあらかじめご了承頂きたい。
彼女はおおよそ以下のようにお考えのようだ。
日本には仏教の伝播を通じて、その仏教に内包されたマヌの法典を端緒とするヒンドゥー社会に内包された男尊女卑的な発想までもが持ち込まれることとなり、それが様々な権力の中枢にもかかわった歴史を通じて日本社会に深く根を下ろしている。
その結果、原発反対運動もフェミニズムも、日本社会を変えることのできない責任の一端が、この男尊女卑の色合いを残した仏教にある、と。
これらについては、私はまったく違う(特に力学的(?)に)と考えるが、それはともかく・・・。
彼女はこのような視点から、主として、お釈迦さんに乳粥を供養したスジャータの身分にある仮説を立て(同様に修行仲間に対しても仮説を立てている)、上記の堕落したといった言葉の理由づけなどを考察している。
申し訳ないのだが、前置きだけでもかなり長くなってしまったので、説明は次回以降に持ち越しとする。
これもご了承頂きたい。
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追記: 2022/06/11 3:22
〜訂正内容〜
本文を複数回訂正しました。
何度もすみません。