おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

697_ひしみー118

09 梵天による懇請

・釈迦は真理を楽しんでいた

前回( 696_ひしみー117 )の続きです。

お釈迦さんは、仏陀となった後の 4 週間である約 1 カ月を、4 種の大樹の下に結跏趺坐をして瞑想をして過ごす。(*1)

ひろさんによると、その期間にお釈迦さんが誰かに教えを説いた形跡はないそうだ。

仏典によると、お釈迦さんのこの状態は「自受法楽(じじゅほうらく)」とされる。

ひろさんは、これをお釈迦さんが、自ら悟った真理(法)を、自分で受けて楽しんでいたものとして、「無言語状態」と呼びたい、とお書きになっている。

お釈迦さんは、法を他者に伝達することがなかったからだそうだ。

ひろさんは、そこで問題になるのは、お釈迦さんがいかなる法(真理)を悟ったか、などとお書きになっている。

以下、いろいろと改変があるが、勝手に書かせて頂く。

ひろさんは、大体、以下のように言っている。

そもそも、真理を悟るという言い方がおかしい。

真理なるものがすでに存在していて、私達がそれを感得するかのように思えてしまうからだ。

そうではなくて、古くから言われるように、「(自らが)真理の中に溶け込んでいる」と言った方がよい。

自分と真理とが一体化している状態が、真理を悟った状態なのだ。

ひろさんは、それを 1 杯の水を例にして説明している。

私達が 1 杯の水を飲んで、「この水はおいしい」と判断するが、それは言葉では言いあらわせない。

私達が、直接水を飲むことで、そのおいしさを味わうしかない。

その味わっていることが、私達が水のおいしさを悟っている状態である。

つまり、これが真理を味わっている状態になるのだ。

と。

ひろさんは、ここでさらに、こうしたことは禅問答の独壇場だとして、例を引いているのだが、私はこの例えは個人的に間違っていると思うので、申し訳ないが省略させて頂く。

で。

ひろさんによると、お釈迦さんの悟りのスケールは、唐時代の中国の禅僧のものとは違うとはしつつ、悟りの構造は同じだとしている。

そうであるからこそ、仏教が成り立ち、仏教は、お釈迦さん=仏、の教えであると同時に、私達もその教えによって仏になることが期待されている、としている。

つまり、お釈迦さんは、悟りを開いた(=成道)後の 4 週間、悟った真理の中にあり、真理と一体化して、真理を楽しんでいたとして、お釈迦さんは無言語状態にあったのだ、としている。

~~~~~

(*1)
( 691_ひしみー112 より )
・結跏趺坐~けっかふざ~趺(足の甲)を結び(交差させて)、もう片方の足の趺(太もも)の上に乗せて、坐す(座る)こと。
・趺坐~ふざ~仏教語~足を組み合わせて座ること。
(用例)結跏趺坐。

( 694_ひしみー115 より。一部改変・省略あり)
お釈迦さんは、35 才の時の12 月 8 日に悟りを開いて仏陀になって以降、 1 週間ごとに、場所を変えながら、 4 週間にわたり、禅定を続けた。
第 1 週 → 菩提樹
第 2 週 → アジャパーラ榕樹下
第 3 週 → ムチリンダ樹下
第 4 週 → ラージャーヤタナ樹下

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①追記: 2022/10/07 02:50
②追記: 2023/05/14 22:26
 〜訂正内容〜
上記複数回にわたり、表題と本文を加筆・訂正しました。
②について
09 梵天による懇請
の内容が始まる、
694_ひしみー115
から
714_ひしみー135
までの 21 個分の表題を
すべて間違えていたこと
に気づきましたので、
これらを訂正しました。
これに伴って本文中も
訂正すべき部分を訂正
することにしました。
この章の正しい表題は
09 梵天による懇請
でなければならないところを、ずっと
09 梵天の懇請
のままにしていました。
大変失礼致しました。
申し訳ございません。
お詫びとともに訂正させて頂きます。