おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

355_法話50-40

40. 依存する心と戦う

この体は水瓶のようにもろいものだと知り、
しかしこの心は城郭のように防備する。
智慧の武器をもって、
悪魔(心の汚れ)と戦う。
克(か)ち得たものをそれに執着することなく守る。

(四〇) (第3章 心 より)

この経文も、水瓶それ自体にインド特有の意味があるようなので、S さんのお話にします(適宜、改変・漢字化などあり)。

大体において、お釈迦さんの系統らしい、克己心を主題とした自力で精進していくためのお話になっています。

インドの水瓶は、素焼きで作られています。

表面から水分が蒸発して温度が奪われるので、水が冷えて美味しくなります。

水が汚れていても、汚れは瓶の底に沈むので、1 日たてば飲むことができます。

ただ、素焼きの瓶は、手で叩いても壊れるほどにもろいものです。

私達の体も、この素焼きの水瓶のようにとてももろいのです。

いくら体を鍛えても、交通事故に遭(あ)ったり、細菌に冒(おか)されたり、食中毒で死ぬこともあります。

私達はかろうじて生きているようなものなのです。

体がそのようにもろいものならば、その心はどうでしょうか。

心だって、もろいのです。

お釈迦様は、「体は水瓶のようにもろい。心は大きな町のように混沌としている」と言われました。

大きな町には、王様もいれば、商人も、泥棒も、人殺しも、ホームレスも、ありとあらゆる人がいます。

悪いこともよいことも起きている。

汚いと言えば汚いし、綺麗と言えば綺麗です。

安全であり危険、便利であり不便、自由であり不自由・・・・・。

心もまたそういうものなのです。

体は水瓶のようにもろくて、心は町のように矛盾だらけで混沌としています。

それが私達なのです。

ゆえに、そのままでは、安らぎがありません。

だから、お釈迦様は、「智慧の武器をもって戦いなさい」と言います。

戦うとは、誰かを相手にして戦うことではありません。

自分の中の依存する心、歓楽に耽る心と戦うのです。

何かに執着して、依存してしまうと、依って立つものが失われる度に、苦しむことになります。

依存するものがなければ自由です。

最終的には、体にも心にも依存しない、どちらにも執着しないのが、仏教の目的なのです。

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追記: 2024/04/28 01:17
〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。

354_法話50-39

39. わたしたちは依存性にかかっている

夢中になって、人は花ばかりを摘(つ)む。
欲に満足することなく、死に制服される。

(四八) (第4章 花にちなんで より)

たまには、S さん(スリランカ仏教界のアルボムッレ・スマナサーラ長老)のお話をそのままに記します(適宜、改変・漢字化などあり)。

私達は皆何かの依存性にかかっています。

今かからずとも、いずれかかる場合もあります。

いわば、依存性のキャリア、保菌者なのです。

依存するものは、酒、金儲け、仕事、賭け事(ギャンブル)、おしゃべり、テレビなど、限りなくあります。

酒や賭け事に依存するのはよくない、とは誰でもわかっています。

けれども、私達はグルメやブランド、健康食品といったものに依存して生活しているかもしれません。

インターネットに依存し、次から次へと調べたりして、何時間も費(つい)やします。

依存をすると、本来なすべきことを後回しにしてしまいます。

今何をすべきか、がわからなくなるのです。

普通の人なら、朝起きたら顔を洗って食事をします。

しかし、アルコール依存性の人は、朝起きるとすぐに酒に手がいきます。

賭け事に依存している人は、子供の学費でさえも賭け事につぎ込んでしまいます。

家を売ってでも、賭け事をする人もいます。

炎天下の車中に子供を放置したまたま、パチンコに熱中して、子供を死なせてしまった親がいました。

何と愚かなことでしょうか。

何に依存するかが問題なのではありません。

依存すること自体がよくないのです。

仏教を学ぶことや、ボランティアの活動に励むことは、確かにいいことです。

しかし、それに依存すれば、やはり自分を見失っていくのです。私(S さんのこと)のところに学びに来る人の中で、よく、「命がけで仏教を学びます。仏教に命をかけます」という人がいます。

けれども、そういう人で、修行が進んだ人はいません。

命がけ云々という人は、そのことにしがみついている訳です。

仏教に依存している、と言えましょう。

物事は真剣過ぎるのもよくない(?)し、いい加減でもよくない。

だから、中道が大切なのです。


さあ、修行者たちよ。
お前たちに告げよう。
もろもろの事象は過ぎ去るものである。
怠ることなく(不放逸にして)修行を完成しなさい。

(大パリニッバーナ経)


これはお釈迦様の最期の言葉です。

「不放逸であれ」とお釈迦様は説かれています。

不放逸とは、パーリ語では、アッパマーダといいます。

「その時、その時に何をするかわかっている」ことです。

今この瞬間にどうすべきか、次の瞬間はどうすべきか、とその時々に気づいていることです。

反対に、パマーダとは、放逸に耽(ふけ)ること、溺れること、過度に依存することを意味します。

心が酔っていて、自分が何をしているのかわからない状態をいいます。

今何をすべきかをよくわかっていて、それをきちんとやること ー それが、不放逸です。

不放逸であることで、心は育っていくのです。

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①追記: 2024/04/28 01:11
②追記: 2024/04/28 01:12
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。

353_法話50-38

38. 真の勇者とは

よいことをするためには、
ためらってはならない。
善をなすのに躊躇(ちゅうちょ)していたら、
心は悪を楽しむことになる。

(一一六) (第9章 悪 より)

よくわからないのだが。

S さんは、人間の心(以下、想いとする)は悪い方向に行く方が楽で、ちょっとした隙(すき)さえあれば、悪い方向に行ってしまうと言う。

安易な気持ちで、大したことはないと、悪いことをするものだ、とも言う。

人間はこんなものだからこそ(?)、よいことを実行するためには、かなり強い決意が必要だ、と言う。

そして、意志薄弱な者はよいことはできないとして、よいことをする者こそが、真の勇者だと言う。

これ、何だか、人間は元々怠惰な悪者である、と言わんばかりの性悪説みたいじゃないですか。

まるで、人間は元から悪者的だからこそ、よいことを実行するために、並々ならぬ決意が必要だ、と言わんばかりです。

まるで、磨いても、光らない玉。

私にはそのように読めるんですけど。

人間、なかんずく、肉体人間は、本質は絶対善です。

磨けば光る玉。

神様の分けられたお命なのだから。

本質は神様そのものなのだから。

ただし、この世に生を受けることは、基本的には、あまたの過去世でため込んできた、神様のみ心にはそぐわない、真善美と愛に悖る想いと行いの清算をするという(過去世のよからぬ因縁=業想念の償いをするなどの)修行をしながら、同時に、神様の世界をこの世に映し出す活動をしていく訳です。

安易に悪いことをしがちで、迷っているのは、輪廻転生を通して染みついてしまった人間=肉体人間であるとの肉体人間観と、業想念のためです。

だから、肉体人間の本質それ自体が悪い訳ではない。

それゆえ、お釈迦さん時代のような自力修行や、浄土門や世界平和の祈りと守護の神霊への感謝行のような他力修行や、こうした常識のようなあるべき規範としての経文を拠り所として、霊性の開発をして、業想念を少しでも浄め去って、元々の神性、神様の分け命としての人間の形を取り戻すように、努力していく。

従って、この経文は、安易に流されないために、意識してよきことをするように心がけなさい、という常識的な規範をあらわしている、と思います。

なお、S さんは、加えて、次の2つの経文をあげています。

戦場において百万人に打ち勝つよりも、
ただ一人の自己に勝つ者こそ、
最上の勝利者である。

(一〇三)  (第8章 千という数にちなんで より)

己に打ち克って、
つねに落ち着いている人の勝利を破ることは、
神もガーンダルヴァも、悪魔も、梵天もできない。

(一〇四、一〇五) (第8章 千という数にちなんで より)

S さんは、次のように述べています(適宜改変などあり)。

気が弱くて怖がりな人は武器を持とうとします。
自信のない人は強がります。
不満のある人は派手に自己主張します。
抑圧された人は懸命に権力や地位を手にいれようとします。

本当に強い人、自信がある人は、そんな愚かなことはしません。
もちろん、他人のせいにしたり、他人の非を咎(とが)めて攻撃するようなこともしません。
自分自身に満ち足りていますから、いつも落ち着いていられるのです。

経文の一つは、克己心が強いことの、たとえ話ですね。

今一つについては、ちょっと遠慮します。

~~~~~

・克己~こっき~自分の欲望や怠け心に打ち勝つこと。
(用例)克己心が強い。
克己復礼~自制して礼儀を守ること。

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①追記: 2021/05/02 06:15
②追記: 2021/05/04 13:52
③追記: 2024/04/28 01:06
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。

352_法話50-37

37. 自分が喜び人も喜ぶ

後悔する羽目になる行為は、
しない方がよい。
その報いを受けて、
涙を流して泣くだろう。

(六七) (第5章 愚か者 より)

後悔する羽目にならない行為は、
進んで行った方がよい。
その報いを受けて、
幸せになるだろう。

(六八) (第5章 愚か者 より)

(お断り)私の個人的な判断で、上記各経文の段落分けを変えたり、句読点を加えたり、漢字化を行ったりの改変をしています。この点をあらかじめご了承願います。

以下、S さんのお話です(かなりの意訳・改変・要約などあり)。

お釈迦さんは、何事であれ、「後悔しないで、喜んで、その報いを受ける」ことをよいことと教えました。

よいことは、自分が喜び他人も喜ぶ行いであり、後で後悔しないことです。

これと対照的に、自分が苦しみ他人も苦しむのが、悪いことです。だから、行動を起こす前に、わずかでも後悔の懸念があるのなら、その行動はやめましょう(思いとどまれ、ということですね、これは)。

後味のよいと思われる行動だけをすることです。よいことをすれば、よい結果が出ます。これには、例外がありません(そうかな?)。そこそこの結果しか得られないのは、それ相応のそこそこのことしかしていないからです。

ただし、よい結果ばかりを渇望し、結果が得られず、不平不満や怒りを抱き、心(以下、想いとする)を汚す人がいます。

ゆえに、よいことはあくまでも、想いを浄(きよ)めるためにすべきです。

そのためには、競技のように絶えず訓練しなければなりません。少しでも休むと、よいことを怠るので、よいことをしようとの想いを持つことです。

私見を 3 つほど。

①後悔するであろう、よからぬことを、思いとどまろうとしてもできない、やってしまうことがあります。

いわば、わかっちゃいるけどやめられない、という場合です。

思いとどまるのも、意志次第なのでしょうか。

②よいことをしても、悪いことが返ってくる場合があります。

尽くせば尽くすほど、これでもか、これでもか、と逆に辛(つら)く当たられる場合です。

だから、(この世のあらわれとしての)例外はあります。

③よいことは、取引よろしくするものではなく、人としての自然な発露として、その一環としてする行為となるのが、望ましいものです。

なぜならば、私達肉体人間は、その本質が神様の分けられたお命、分霊(わけみたま)=神様に他ならないから。

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①追記: 2021/05/01 16:56
②追記: 2024/04/28 01:01
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。

351_法話50-36

36. 心によい癖をつける

悪事に生き甲斐を感じて、
それを繰り返してはならない。
悪が積み重なるのは、
苦しみである。

(一一七) (第9章 悪 より)

善いことに生き甲斐を感じて、
それを繰り返しなさい。
善いことが積み重なるのは、
楽しみである。

(一一八) (第9章 悪 より)

(お断り)私の個人的な判断で、上記各経文の段落分けを変えたり、句読点を加えたり、漢字化を行ったりの改変をしています。この点をあらかじめご了承願います。

これからのいくかの経文がそうなんですが。

以下は、私のきわめて自分勝手な独断と偏見ですので、お見苦しい点が多々あるとは思いますが、何分、力不足な者の言として、あらかじめご承知置きの上、お許し願います。

この 36 節の後にも、あるべき形がこうで、これこれこうした報い(あるいは反応とも言えるかもしれない)があるから、このようにしなさい、といった形の経文がいくつか続きます。

つまり、良いことがあるべき形であり、一種の(?)人としてあるべき好ましい快感(?)にもつながる報いや反応が得られるから、こうしろ、と。

これ、説教の一種ではないですか?

私は、この場(ブログ)を借りて、幾度となく説教は(特別な場合を除き基本的に)無効だ、と書いてきました。

それは、特別な場合を除き、説教だけでは、真善美と愛に悖る想いと行いを因縁因果として完結させるか、浄め去ることができないからです。

悪い想いと行いを完全に浄めて、輪廻転生の過程に載せないこと。

これができないがゆえに、基本的に無効だと書いてきました。

で。

私の話だけだと、到底、満足できない方がおられると思うので、S さんのお話を、ざっとですが、まとめておきます。

以下、S さんのお話です(意訳・改変・要約などあり)。

本当に自由な心とは、「どんなことがあっても波立たない、こだわらない心」です。

しかし、人は長年にわたる気持ちの持ち方の癖のために自由が得られていません。

よいことを習慣づけていけば、必ず、自由になることができます。

逆に悪いことを安易にする習慣がついてしまうと、これも習慣化されてしまうので、些細なことからはじまって、悪の習慣化をしないように、よく注意を払う必要があります。

そして、どんな時でも、よいことをしようと、心がけていくことにより、知恵も磨かれていのです。

~~~~~

・言霊~ことだま~言葉を神霊視した言い方で、言葉の持つ不思議な霊力。

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①追記: 2021/05/01 16:13
②追記: 2024/04/28 00:57
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。

350_法話50-35

35. 小さな過ちにこそ気をつける

その報いは来ないだろうと思って、
悪を軽んじてはいけない。
水が一滴ずつしたたり落ちるならば、
水瓶を満たす。
愚かな者が、
些細な悪を積み重ねるならば、
やがて悪を満たす。
悪を積むならば、
やがて災いに満たされる。

(一二一) (第9章 悪 より)

これは別の経文と対になっているので、こちらを含めた別の訳を書きます。

「私はその果報を被らない」と思い、
悪い行いを軽んじてはならない。
水は一滴ずつ滴(したた)り落ち、
水瓶(みずがめ)を満たす。
愚か者は、悪い行いを少しずつ重ね、
やがて災いに満たされる。

(一二一) (第9章 悪 より)

「私はその果報を享受できない」と思い、
善い行いを軽んじてはならない。
水は一滴ずつ滴り落ち、
水瓶を満たす。
善人は、善い行いを少しずつ重ね、
やがて福徳に満たされる。

(一二二) (第9章 悪 より)

なお、私の個人的な判断で、上記各経文の段落分けを変えたり、句読点を加えたり、漢字化を行ったりの改変をしています。あらかじめご了承願います。

以下、S さんの内容を (a)、私の思うところを (b) として、見ていきたいと思います。なお、私の判断で、適宜、改変・要約・書き換えなどがあることは、ご了承願います。

(a) 例えば、強盗や殺人などの犯罪が発生すると、世の中は大騒ぎになります。

しかし、事件という結果だけを見て、あれこれと議論をしても、問題解決の糸口は見つかりません。

ニュースになるような犯罪の多くは、その当人である各個人の日々の生き方に問題があるからです。

私達は、「小さな悪いこと」をいくらでもしています。毎日やっている悪いことを放置しておくと、やがて、大きな殺人や盗みという結果に結びついてくるかもしれません。

小さなことをいい加減にしていると、大きな罪も平気で犯してしまうようになります。

だから、日々行っている小さな過ちにこそ、目を向けなければなりません。

「悪いこと」はどんな小さなことでも、たとえ一回であっても、決して行わないと心に決めるべきなのです。

どんな小さなことでも、それを行ってしまうと、やがて癖になって心が汚れてしまいます。

仏教には「戒律」があります。

戒律を守ることが仏教の基本です。

戒律とは、悪から遠ざかって、よい習慣をつけるためのものです。

心を清らかにすることを目的としています。

「盗むなかれ」という仏教の戒めは、糸一本でも他人のものを盗んではいけないことなのです。

「これくらいなら、平気だろう」という心でいると、大きな悪でも「これくらいなら、いいや」という気持ちになってしまいます。

「百円くらいなら盗んでも平気だろう」と思う人は、会社のお金をごまかして、数千万円もの大金を盗んでも平気になってしまいます。

小さな嘘をつく人も同様です。

「嘘をつくのは仕方がない時もある。嘘も方便だ」などと例外を作ります。

人間というものは、一つ例外を作ると、どんどん都合のいいように、解釈していきます。

「敵ならばいい。悪人ならばいい。自分の生命を守るためには、他人を殺しても構わない」というように、どんどんエスカレートしていきます。

例外を作ることで、すべてを台無しにしてしまいます。

たとえ将来自分が殺されるような時でさえも、決して相手を殺してはならない、とお釈迦様は説かれています。 

悪いことには、決して例外を作ってはいけないのです。

(b) 善悪は、特に悪については、たとえどんなに小さなものでも、おろそかにしてはいけませんよ、というお話ですね。

しかし。

嘘。

これは偽りです。

真理から外れるものです。

しかし、だからと言って、すべてが許されぬ、と四角四面、杓子定規にやっていけば、世の中は、それこそ、いさかいだらけ、争いだらけになってしまいます。

まだまだ、平均でならしたところの世の中全体の霊性が高くはないと思われるからです。

因縁因果もまだまだ厳しい(まだまだ修行途中でそれぞれの人の完遂までには時間がかかると思われる)ですからね。

いくら人生に修行の側面があるからといって、様々な軋轢を余儀なくされている現代社会で、これが真実だ、私は絶対に筋を曲げないんだ、と古(いにしえ)の出家修行者のようにあまりにも頑なな姿勢を崩さないと、無理が生じると思われるからです。

当時の在家の人々と比べたとして、現代人は環境が違いすぎるでしょう。

徹底的にやり過ぎてしまうと、孤高がきわまってしまい、組織からも社会からも浮き立ち、どうにもならなくなるのではないでしょうか。

理想は理想として、しかと心にとどめ置きながら、世界平和の祈りと守護霊様と守護神様への感謝行を平行していくなどなど、が今のところは現実的な対処だと思います。

例えば、容姿のあまり芳しくない人に対して、あからさまに蔑む言葉を投げつけたら、言われた人はどうなるか。

病気の人に対して、いくら事実に近いからといって、厳しいことをみなまで言ったらどうなるか。

やはり、当面は、相手の性質や置かれた環境を、適宜、その都度、その都度、鑑みながら、嘘も織り交ぜてやっていくしかないと思います。

そうすることで、相手の容姿が向上したり、病気が改善することは実際にありますからね。

ただし、確かに一時的にせよ、事実を曲げた部分はあるので、その償いも兼ねるものとして、損なわれた霊性の回復のために、世界平和の祈りと守護霊様と守護神様への感謝行をすることが望ましいと思います。

まあ。

いくら、容姿のすぐれない人や、病気で苦しんでいる人に、ウソはつかない、事実を絶対に曲げないと、四角四面、杓子定規に、どんなに相手が傷つけ、痛もうがかまわないと、厳しいことを言うのは、相手を著しく凹ましてしまいます。

あなたも私も、同じ神様の子供、兄弟姉妹という本質に立ち返れば(肉体人間の本質は神様の分けられたお命という分霊だから)、やはり、互いに愛し合い、慈しみ合い、労り合い、尽くし合うような形が望ましいと言えます。

だから、このような場合には、確かに事実を一部曲げてしまい、真理に悖ることにはなってしまいますが、相手を傷つけまい、痛めまいとする愛深い立場からは、あえてこの事実を引き受けることにして、ウソをつくことを受け入れ、相手の容姿が少しでも向上するように、相手の健康状態が少しでもよくなるように、ただただ相手の幸福を願って、世界平和の祈りとともに、あの人の天命がまっとうされますように、どうかあの人が少しでも運命が好転しますようにと、あの人の守護霊様、守護神様、お願いします、
と、ただただ、ひたすら黙って祈るしかないと思います。

愛情からとはいえ、一部事実を曲げたことについては、あくまでもこちら側で、すべてを引き受け、祈り一念に徹するしかない、と個人的に考えます。

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①追記: 2021/04/29 20:47
②追記: 2021/04/29 20:53
③追記: 2021/04/30 06:06
④追記: 2021/04/30 23:56
⑤追記: 2024/04/28 00:40
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。

349_法話50-34

34. 自分で生んだ苦からは逃れられない

悪いことをした人は、
この世で悩み、
来世でも悩み、
二つのところで、ともに悩む。
彼は、自分の行為が汚れているのを見て、憂え、悩む。

(一五) (第1章 対句 より)

善いことをした人は、
この世で喜び、
来世でも喜び、
二つのところでともに喜ぶ。
彼は、自分の行為が清らかなのを見て、喜び、楽しむ。

(一六) (第2章 対句 より)

以下、私の個人的な判断で、上記経文の段落分けを変えたり、漢字化を行っています。

あらかじめご了承願います。

さらに、S さんの内容を (a)、私の思うところを (b) として、逐条解釈的に見ていきたいと思います。なお、私の判断で、適宜、改変・要約・書き換えなどがあることは、ご了承願います。

(a) 嘘をついたり、殺生をしたり、他人に迷惑をかけたり、悲しみを与えることは、悪いことです。

悪いことをすれば、まず、自分自身が悩み苦しむことになります。

よいこととは何か、悪いこととは何か。

それは説明しなくても「実感」としてわかることです。

よいことは、ほんの些細なことでも、やってみれば、「これは気持ちがいい」、「安らぎが得られる」と実感することができます。

悪いことをする人は、その行為をする前から悩み苦しんでいます。

そして悪いことをした瞬間にも苦しみます。

そのあとも、思い出しては苦しむことになります。

苦しみが苦しみを呼ぶのです。

たとえ悪事がバレなくても(露見するの方がいいんじゃないかなあ。S さんは仏教界の長老なんだから。他に訳の方が介在したのなら仕方ないのかもしれませんけど)、自分自身の苦しみからは決して逃れることはできません。

私達は、いつでも自分を評価して生きています。

どんなに高得点をつけたくても、悪いことをすれば評価は下がります。

よいことをすれば自ずと評価は上がります。

とてもいい自己採点ができます。

いずれの評価も自分自身が「実感」としてわかるのです。

(b) まずは、経文に関して前提として。

想いの法則、因縁因果の法則がありますね。

自他ともに対しての良き想いは、良き行いとなり、(原則として)輪廻転生を通して、良きものとして自らに返ってくる。

同様にして、自他ともに対しての悪(あ)しき想いは、悪しき行いとなり、(原則として)輪廻転生を通して、悪しきものとして自らに返ってくる。

S さんの言っている、説明しなくても実感としてわかる、というのは、私達が神様の分けられたお命を本体としているから。

だからこそ、善悪の判断が可能となる。

神様のみ心に沿ったものが善で、外れたものが悪、と。

つまり、私達は善悪の判断基準を生まれながらにして授かっていることになる。

よほどの因業人間で、凄まじい悪人や、サイコパスでない限りは(こうした人達でも、深層には神意識があるのだから、本当はわかっていますよ。そして、悪しき想いと行いは潜在意識である想いの世界の幽体に記録されます)。

そうして、過去世の因縁のあらわれとしての悪い想いと行いは、良心の呵責として、この世でわが身を苦しめる。

この世で新たに作り出した悪い想いと行いは、来世以降に、わが身に悪いものとして返ってくる形で、これまた、わが身を苦しめる。

そういうことでしょうね。

よいことについては、これを応用して、反対に考えればよいでしょう。

なお、S さんは、逃れることができないとしていますが、例外があって、過去世の因縁のあらわれ、悪い因果としてのこの世でのあらわれを、守護の神霊さんがその裁量の範囲内で浄めて消して下さることがあります。

もちろん、なんでもかんでもではなくて、あくまでも、守護する肉体人間の霊性の開発具合を鑑みながらでしょうけど。

ただし。

S さんは、私達が神様の分けられたお命を頂いているところからくる、正邪の判断基準を「実感」としているが、これは人によってまちまちなはず。

誰でも画一的に同じ実感ができて、同じ判断が下せるとは限らない。

過去世の因縁が悪く、悪いことをするのに抵抗感のない人や図々しい人は、どんどんどんどん悪いことをして、でしゃばることをするのではないか?

私達の深層の神意識で判断していることなら、画一的にできても、この世での表層意識、顕在意識では、過去世の因縁に悪い影響を受けて罪悪感が薄い人がいるんじゃないですか?

これとは正反対に、いわゆる、いい人、気の弱い人、気のやさしい人、気の小さい人は、きわめて遠慮かちで、ましてや、悪いことなど簡単にはできない。

つまり、人によって個人差がかなり幅広くあるので、S さんのように人々一般に、画一的・一律の形であのように悪いことをすれば、悩み、苦しみ、自分を傷つけるとは言えないんじゃないですかねえ。

(a) 何事もうまくいっていて、自分も家族も幸せな人は、他人に危害を加えたり、迷惑をかけるようなことはしません。

自分が明るくて充実している時には、思わず微笑んでしまいます。

挨拶することは、とても気持ちがいいし、何の抵抗もありません。

心に喜びを感じながら、よいことをすればするほど、周りからよい反応が返ってきます。

自己を採点すると、うまくやっているという満足も増えます。すると、さらによいことをしたくなります。

よい行為をする人は、「今」に喜びがあり、これからも喜ぶことができるでしょう。

悪い行為をすると、悩みや苦しみが増えるばかりです。

今も悩み、これからも悩みことになるでしょう。

(b) 正の連鎖、良きことの想いと行いの連鎖が続いていく、という話ですね。

連鎖はしやすいから、連鎖するのならば、良きことに限る、というお話でしょうね。

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①追記: 2024/04/27 21:21
②追記: 2024/04/27 22:10
③追記: 2024/04/27 22:13
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を本文を加筆・訂正しました。