352_法話50-37
37. 自分が喜び人も喜ぶ
後悔する羽目になる行為は、
しない方がよい。
その報いを受けて、
涙を流して泣くだろう。
(六七) (第5章 愚か者 より)
後悔する羽目にならない行為は、
進んで行った方がよい。
その報いを受けて、
幸せになるだろう。
(六八) (第5章 愚か者 より)
(お断り)私の個人的な判断で、上記各経文の段落分けを変えたり、句読点を加えたり、漢字化を行ったりの改変をしています。この点をあらかじめご了承願います。
以下、S さんのお話です(かなりの意訳・改変・要約などあり)。
お釈迦さんは、何事であれ、「後悔しないで、喜んで、その報いを受ける」ことをよいことと教えました。
よいことは、自分が喜び他人も喜ぶ行いであり、後で後悔しないことです。
これと対照的に、自分が苦しみ他人も苦しむのが、悪いことです。だから、行動を起こす前に、わずかでも後悔の懸念があるのなら、その行動はやめましょう(思いとどまれ、ということですね、これは)。
後味のよいと思われる行動だけをすることです。よいことをすれば、よい結果が出ます。これには、例外がありません(そうかな?)。そこそこの結果しか得られないのは、それ相応のそこそこのことしかしていないからです。
ただし、よい結果ばかりを渇望し、結果が得られず、不平不満や怒りを抱き、心(以下、想いとする)を汚す人がいます。
ゆえに、よいことはあくまでも、想いを浄(きよ)めるためにすべきです。
そのためには、競技のように絶えず訓練しなければなりません。少しでも休むと、よいことを怠るので、よいことをしようとの想いを持つことです。
私見を 3 つほど。
①後悔するであろう、よからぬことを、思いとどまろうとしてもできない、やってしまうことがあります。
いわば、わかっちゃいるけどやめられない、という場合です。
思いとどまるのも、意志次第なのでしょうか。
②よいことをしても、悪いことが返ってくる場合があります。
尽くせば尽くすほど、これでもか、これでもか、と逆に辛(つら)く当たられる場合です。
だから、(この世のあらわれとしての)例外はあります。
③よいことは、取引よろしくするものではなく、人としての自然な発露として、その一環としてする行為となるのが、望ましいものです。
なぜならば、私達肉体人間は、その本質が神様の分けられたお命、分霊(わけみたま)=神様に他ならないから。
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①追記: 2021/05/01 16:56
②追記: 2024/04/28 01:01
〜訂正内容〜
上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。