おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

058_輪廻と信仰2

前回 ( 057_輪廻と信仰 - おぶなより ) の続きで、ここでは、輪廻転生と過去世について書きたいと思う。

で、過去世について。

私達の大半は、おそらく、数多(あまた)の輪廻転生(生まれ変わり)を経験している。

過去世とは、現世から見ると、前世、前々世、前々々世、前々々々世・・・と、それまでのいくつもの生まれ変わりによる各人生の総称です。

一口に、過去世といっても、たくさんのものが含まれている訳です。

そして、生まれ変わり、現世たるこの世(=今生)に出てきた時、すなわち、出産を経て赤ちゃんとして生まれ出た時には、それまでの数多の過去世の記憶は消されている。

お人によっては、 3、4 才くらいまでの幼少期に、この記憶を持っている場合もあるのだが、原則として、ほとんどすべての人は、過去世の記憶を忘れた状態で生きていくことになる。

まれに、過去世の記憶を持ちながらも、夭折(ようせつ)して輪廻転生から上がり、解脱(げだつ)する場合もあるが、これも例外的な事例。(*1)

なので、自分に数多の過去世があったとしても、そんなことは何もわからないのが普通です。

ましてや、現世の生き方だけから考えても、過去世で、真善美に悖(もと)る(=反する)、よからぬ行いをしていたことなど、わかる訳がないし、これを知らされたとしても、信じたくないのも無理はない。

それに、輪廻転生を軽く認めた(?)としても、いくつかの生まれ変わりを通した自分という個性があれば、これは変わらないはずだから、よからぬこと、悪いことをすることなど、あり得ないと考えるのが一般的ではないかと思う。

皆、誰もが、自分だけは悪いことはしない、正しい、と思いがちだからね。

そんなことは絶対にするはずがない、と。

これは、この世で理不尽な思いを味わい、苦しんだことのある人なら、誰もがかなり感じることが多いことだと思う(でも残念なことにほとんどは逆なんだ。だからこそ課題アリとしてこの世に生を受けたのたから)。

俺だってそう。

自分など大したことなど何もできず、人様にこれといって尽くしたような誉められたことなどない。

しかし、だからといって、他人を訳もなく苦しめたり、傷つけたりしてきたことなど、何も思い当たらないのに、何でこんな目に遭(あ)わされるんだ、と何度思ったかわからないよ。

だから、本当に苦しくて仕方がなかった。

今は、後れ馳(ば)せながらようやくあきらめの境地に至って来ているかどうか、というところ(従って、浄土門妙好人と呼ばれる、因幡の源左さんや浅原才市さんや宇右衛門さんのように素直な感謝など到底できず、彼らとはまったく比較にもにならないほど霊性が低い状態)。

そして、ここでは、二通りの見方ができると思う。

この世のすべてを、つくりあげた神様をどうとらえるか、についてです。

第 1 。

神様を否定的にとらえる場合。

それも、さらに、二分される。

神様の存否をどう考えるか、で。

一つは、神様などという絶対者は、そもそも存在しないとする場合。

神様などいない。

別にただ何となく生まれてしまっただけだ。

死ぬ時だってそんなもん。

死んだら、無になる。

何もなくなるだけさ。

世の中なんか、ただただ、あるがまま、どんなに弱肉強食が蔓延(はびこ)ろうが、理不尽が罷(まか)り通ろうが、そんなの知ったこっちゃない。

ただ、誰もが皆、好き勝手し放題で、自制して慎ましく生きる人がいても、どんなやり方でも他人を押し退けて自分の生き方を通す人がいても、それはそれなり。

その人の選択次第にすぎない。

自由なのさ。

無秩序だろうが、デタラメだろうが、世の中そんなもん。

あるべき規範なんか、そもそも、存在し得ないのだから。

もう一つは、神様は存在するが、すべてをあまねくつくりあげても、そのあり方を規定できる万能さはなく、愛情や慈悲深さも足りない不完全なものとする場合。

この場合にも、弱肉強食は蔓延り、理不尽が罷り通るのも、仕方ないことになる。

これも二分される。

一つは、いい世の中を作りたくても、なにかと不完全で、各方面で力不足のために、ダメな世の中になっている場合。

今一つは、力はあるが、あえて肉体人間が、苦しむところを眺め、楽しんでいる意地悪な存在である場合。

次、第 2 。

神様を肯定的にとらえる場合。

神様は全知全能であり、あまねくすべてのものを創造する造物主であり、愛そのものであるとする場合。

私達肉体人間の世界、この世が、不条理、不平等、不均衡極まるものになってしまっているのは、別に神様が悪いからではない、ととらえる場合です。

神様は、ありとあらゆるものをつくりあげ、絶対的な力を持つ存在ではあるけれど、世の中がこんな状態になってしまっているのは、神様が悪いからではない、と考える場合です。

この場合なら、神様には、当然、矛盾はないですね。理屈に合ったことを、なされるはずです。

私達肉体人間は、神様の生命を頂いたからこそ生きている。

なぜなら、私達は、どんなに自分で生きたいと思っても、どうしても寿命には抗(あらが)えないからです。(*2)

そして、生きている、その基本的な肉体の各種の生命活動をしている器官は、自分の意志で動かしている訳ではないですね。

さあ、動け、といって心臓が規則的に鼓動を刻む訳ではないですね。無意識に、自然に動いている、働いてくれている。

止まれ、といっても止められません。特別な場合を除き、私達の意志で好き勝手に身体の自然の働きを制御することはできないのです。

とにかく、心臓をはじめ、各身体器官は、私達が寝ている間にも休むことなく、動いている、働いてくれている。

これは、神様の分けられたお命=分霊(わけみたま)をいただいているからこそのものです。

つまり、自分で生きているのではなく、神様に生かされているんだね。

そして、神様が、
「お前さんのこの世での修行期間はもう終了、さあ、次だよ」
となれば、
「おしまい」
ということになる。

無情にも
「肉体よ、さらば」
となってしまう。

残念ながら。

これには、抗えないし、どうしようもない。

つまり、私達は自分の生命をどうこうしようと思っても、それはできないんです。

私達が自らの意志で身勝手に「自殺」をする以外は。

そして、肉体人間としての私達が神様の分霊を本体とする以上、本来存在し得ないはずの各種の不幸などか起こって来るのは、すべてのものをつくりあげた以上、神様に無関係ではないにしても、私達自身に何らかの原因があることになる。

神様は、万物の創造主だとしましたが、ならば、その仕組みにも、法則があるはずです。

簡単にいうと、私達に不幸などか起こるのは、その法則を違(たが)えてしまった、外れてしまったということです。

神様の分けられたお命=真善美に悖らない神様の分霊(わけみたま)を頂いて生きてい肉体人間、いわば、神様の子どもたる私達には、本来ならば、不幸などあるはずがないからです。

だから、その法則を外して生きてしまった場合には、その修復を、その外した分だけ、キッチリ余儀なくさせられる羽目になる、という訳です。

傲岸(ごうがん)に訳もなく人を殴ったら、殴り返され、身勝手に浮気をしたら、浮気をやり返される。(*3)

ただし、その大半が、隔世たる生まれ変わりを経て。

しかも、
それが直近の隣接した過去世(前世ですね)と
現世(今現在ですね)と
来世(現世の次の人生ですね)で、
この収支決算調整がなされるなら、まだしもわかりやすいかもしれない。

これが何世も飛ばしてしまったり、人種、国籍が変わると私達の大半には完全にわからなくなってしまう。

推定すら到底不可能になってしまう訳です。

で、私達個々の肉体人間に、どのような輪廻転生をさせ、どのような様々な経験を積ませ、そして、上がりとさせるかは、神様のみ心次第となり、私達には預り知らぬことになっているんですね、おそらく。

その適宜な配分と調整を担当されるのは、おそらく、守護の神霊様方なので、もうすべては神様のみ心次第となり、私達はただただ、受け入れるしかないことになる。

だから、私達の大半にとっては、起きてくること、特に、不幸などの意味付けが、理由がわからない。

理解できない。

ただ、自分に害を及ぼす現在の相手が自分勝手で悪いだけだ、としか思えない。

だから、いとも簡単に相手を批判し、非難し、糾弾する。

恨みに恨む。

さらに言えば、現世において自分に害を為した相手は、自らの過去世において、自分が傷つけた相手か、そのごくごく近しい関係者ですね、おそらく。

そうやって、過去世において、なしてしまった真善美に悖る想念と行為の清算がなされていく訳です。

これが、五井先生(日本の宗教家五井昌久さん)がいうところの、過去世の因縁の「消えてゆく姿」(=過去世の因縁が、この世でそれなりの時間をかけて解消されていく姿)ですね。

こうした仕組みが、まったくわからないで、霊性の開発の機会が皆無ならば、言い換えると、
「過去世の因縁の清算を伴う輪廻転生のありよう」
に気づく機会がなければ、不幸の悪循環(サイクル)は止まらない、ということになる。(*4)

ますます、ドツボ(?)にはまってしまう(=初期仏教の経典の法句経(ダンマパダ)にある通り)、というね。

神様を第 2 の意味で信じることができれば、私達の大半にできることは、
「過去世の何世前のことだだかは不明だが、
それなりに真善美に悖る、神様の法則を違えてしまった想念と行為があり、
そのツケが今、こうして、こんな形で回って来たんだな」
と理解することくらいしかない、ということになる。

現世での、他人から傷つけられた、害を被(こうむ)った結果から、自らが過去世においてなしてしまった、真善美に悖る、神様の法則を違えてしまった想念と行為を、逆算・類推することしかできないんです(私達には通常、六神通や宿命通といった能力がないのが普通だから。単なる霊感だけでは信憑性がかなり落ちる)。

宇右衛門さんのような妙好人の人達には、これがかなりわかっているから、阿弥陀如来様(神様)が、仏(神様)の子供としての自分達の誤りを正し、救い取って下さるための、おはからいだ、何とありがたいことか、と感謝できることになる。(*5)

以上を、前提として、理解して頂いた上で・・・。

どのように神様をとらえ、これからどのように生きていかれるかは、あなた次第ですよ、という訳。

まあ、実際は、過去世からの因縁因果次第ですけどね。

といった次第です、 KI さん。

これらを、読まれた上で、内容をどう判断され、何を選びとるかは、あなた次第です。

長々と、失礼致しました。

~~~~~

(*1)・夭折~ようせつ~年が若くて死ぬこと。早死に。夭死。夭逝。

・解脱~げだつ~仏教語~で、煩悩の束縛から離れて、安楽な心境にいたること。悟りの境地にはいること。

(*2)・抗う~あらがう~さからう。反抗する。抵抗する。

(*3)・傲岸~ごうがん~おごりたかぶって、へりくだるところのないこと。また、そのさま。

(*4)過去世の因縁の消えてゆく姿の意味合いが、ある程度わかってきたとしても、宇右衛門さんのように、素直に感謝するのは、難しいですよ。

なかなか、簡単には承服できない。

自分にとっての悪い(=真善美と愛に悖る、神様のみ心に適わない)ことをしたという
「過去世の不名誉な記憶」
は、消し去られているために、身に覚えがないからです。

先に述べたように、私達の大半には、今現在の結果から、逆算・類推するしか、わかりようがない、術(すべ)がないのです(上記の通り)。

ましてや、自分に理不尽な害を為した相手が、普段から自分勝手の権化の悪人だったりしたら、なおさらでしょう。

こんなヤツのすることだ、単に、コイツが悪いだけに違いない。過去世の因縁の発現なんかであるものか、と。

こういった場合まで含めて考えると、その不安定で、不穏な気持ちを鎮めるためにも、とにかく、神様にすがることです。

世界平和の祈りを可能な限りして、守護の神霊さんに普段からのお浄めの感謝も含めて、感謝行をする。

できる限りの、この繰り返ししか、ありません。

霊性がかなり開いている人か、相当に開発された人ならば、神様への信心も篤(あつ)いので、ありがたい、と感謝できる場合もある、と思います。

KI さん。

俺は、言いましたよね?

要は、神様を信じるか否かに尽きるんですよ、と。

あれは、こういった意味なんですよ。

神様に対する信心が篤(あつ)ければ、いかなることも、感謝をもって受け止めることができる、という意味です。

「良きことも、
悪(あ)しきことも、
自分に起こることは
何もかも、
神様(阿弥陀如来様)の思し召し。
ああ、ありがたい、
ありがたい」
と。

まあ、とにかく、宇右衛門さんのような人を道標に、地道に歩んでいくしかありませんね。

何はなくても、自然に世界平和の祈りが涌き上がり、何はともあれ、すぐに神様に感謝できるようになれば、かなりのものだ、と言えるでしょうね。

(*5)しかし、ごく普通の唯物論しか知らない場合ならば、
「何だこの野郎!」
と怒るところを、
「ああ、これは自分が過去世でやっていたことが返ってきたんだな、
神様が自分の魂の汚れを落としをして下さって、神性を磨いて下さってありがたいことなんだな、
相手の人にも借りは返せたし」
ととらえるのだから、その受け取り方には、天と地の差があります。

まあ、霊性や輪廻転生の仕組みを、まるで知らない、あるいは、まったくもって信じられない、信じたくない人には、この差が出てしまうのも、無理もないことだとは思いますけど。

強いて、残る問題点というか、考えておきたいのは、この起きてくることが、過去世の因縁によった、いわば、紐付きのものでない、新規(?)の場合は、どうなるか、ということですかね。

妙好人の人達の話を読んでいると、もう、起きてくるすべてのことは、阿弥陀如来様(神様)のご恩、お計らいで、唯物論的に見ると、良いことも、悪いことも、必然の成り行きで、一切の無駄がないような印象を受けますね。

従って、起きてくる負の因果は、すべて紐付きで、新規(?)はなく、無駄がない、と。

まあ、無駄(???)があるとすれば、正の方で、もしかしたら、これは紐付きではなく、阿弥陀如来様のご慈悲かご褒美(?)となるのかもしれません。

しかし、これ、何かに似ていると思いませんか?

そうです。

以前書いた、霊性の開発がかなりすすんでくると、物事の成り行きが、行雲流水のようになり、必要なものは自然に与えられ、すべての行いも、当意即妙に変わってくるという、あれです。

よって、これから考えられるのは、妙好人の人達のように霊性が開発されているような場合には、おそらく、無駄なことは起きてこない(その原因たる真善美に悖る業想念をもはや積むこともない)から、新規(?)の負の因果は起きない。

しかし、それ以外の圧倒的大多数の霊性がまだまだ開発されていない私達の大半には、この、
「何だこの野郎!」
のような、紐付きではない、過去世の因縁の発現ではない、負の想念行為が新規に起こされるかもしれない、ほんのわずかながらもその可能性がある、といったところでしょうか。

ここだけが、詰めきれず、ほんのちょっと不確かですが、まあ、お許し下さい。五井先生がご存命なら、お聞きすることができるのかもしれませんが、これは叶いませんので。

(追記)
ちょっと、読み返しているうちに、補足というか、念押しをしたくなったので、追記をします。

上記で述べたことは、現世で起きてくること、特にいわれもなく、害を被(こうむ)る案件の場合、実はその大半は、過去世に端を発していて、れっきとした原因のあるものであったんですね(信じられないし、信じたくないのも当然なんですが)。

現界(=この世)も、広義の神様の世界の一部とすれば、本来あるべきではないものは、いずれは必ず消え去らなければならない。その清算がなされるのが、現界での時を経て消えてゆく姿として、現れてくるということです。

ただ、過去世での自分が、相手に対して身勝手に(その過去世の時点で新規に害を及ぼしていても、霊性や輪廻転生すらも信じておらず、おまけに(ご丁寧に)その当時の記憶までもが消し去られてしまっているために、まったく身に覚えがない、納得できないものとして、起きてくるんですね。

ただ、私達が真善美に悖らない神様の分霊を本体とするために、自己保存や動物的な本能を追加付与されていても、こうした行為自体が、行為の当事者間のいかんにかかわらず、やってはならないことだと、身に沁(し)みて感得させるために、清算をさせることは当然の前提として、もう、その想念と行為、それ自体が、そもそも、神様の分霊を本体とする肉体人間として、あるまじき想念と行為だ、とわからせるために。

しかも、これは、たった一回で感得して、わかることができないと、さらにまた繰り返される恐れがあるのではないかと考えられるんですよ。

「あ、一回修了したけど、
この人間は、まだまだ本当の人間がどうあるべきかが、わかっていないな、
じゃあ、もう一度、経験させようか」
と。

「再度、履修(りしゅう)させようか」
と。

ましてや、こうしたことがまるでわからず、 KI さんのように、いつまでも(今のところ)グズグズと、相手の女性達や女性全般を批判的にしか思っていないと、また、その真善美に悖る業想念により新たに起きる悪因縁・・・、といった具合で、悪循環に陥り、下手をすると、本文に書いたように、ドツボにはまってしまう恐れがあるとさえ考えられるんですよ。

人生は基本的に修行なんだから。

本当に厳しいんですよ。

まあ、霊性が開けた立派な人なら、こうした厳しい仕組みでさえ、ありがたいと思えるんでしょうけど。

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①追記: 2022/08/28 13:43
②追記: 2023/06/17 13:50
③追記: 2023/06/17 13:53
④追記: 2023/06/17 13:57
⑤追記: 2023/07/20 19:20
⑤追記: 2023/12/12 01:07
⑥追記: 2024/03/29 07:39
⑦追記: 2024/04/06 02:21
⑧追記: 2024/04/10 06:07
⑨追記: 2024/04/15 06:21
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。