おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

059_輪廻と信仰3

( 055_依頼 - おぶなより ) の(*2)、そして、( 057_輪廻と信仰 - おぶなより )、( 058_輪廻と信仰2 - おぶなより ) と、KI さんの参考のためにと思い、因縁因果、輪廻転生、過去世についての概略と、神様を本当に厚く信じることができるならば、あらゆることに感謝できる意味合いについて触れた。

ありがとう、の言葉(言霊)が大事だ、一切のまわりのことに感謝することができたら信仰の達人だ、と巷で見聞してきたが、ここまで掘り下げないから、わかり方が中途半端で、漫然となっている気がしたので、できる範囲で理解しやすいように、と書いてみた(つもり)。

まあ、何となく程度にしか、わからくても、体得さえすればいい、理解はいずれ後からついてくる、と思う人もいるのかもしれないが、唯物論全盛で理屈屋さんが多いこのご時世、とりあえず、一通りの説明ができれば、損にはならない?と思うので。

で戻ると・・・。

唯物論の範囲で普通に考えて、自分にとって、良いこと、そして、悪いこと、双方に感謝するのは、宗教的に、どんな意味があるのか、についてはとりあえず、おわかり頂けたと思う。

そして、別項に書いたが、この双方を含む、すべてのことに感謝するというのは、神様が自分に対して愛情を持った処遇をするから、決して悪いようにはしない、との深い確固とした信頼がないと絶対にできないことなのですよ。

揺るぎのない絶対の信仰心がないと。

しかし、この心境にまでなるのは、これまた、並大抵なことでは、至れないと思うのもまた確かで。

すべては神様の思し召し、とありがたく、押し頂く信仰者は、まだまだ、絶対的な少数派だと思う(もしかしたら、超絶希少かもしれない)。

ちょっと、話がそれた。

で、あれらを書いているうちに、普段、自分が霊的な内容について感じていて、あまり、詳しくは触れられない、懇切丁寧さに欠けるな、と思えるものが、まだ、いくつかあり、これを、書こうかどうか、少し迷っているんです。

ただ、あまり、ここで霊的なことばかにしてりてしまうと、元々、書こうとした内容に進めなくなるので、とりあえず、このくらいにしようと思う。

俺の文章を、KI さんが読んでくれるか、縁があるか否かは、わからない。まあ、とにかく、彼には、あそこまで書いておけば、とりあえずは、納得するか否か(実はこれも因縁因果次第)は別にして、輪廻転生をはじめとした霊的な話のごく大まかな概要を、ひとまず理解するには十分だろうと判断したので。

ところで、何事についてもそうだろうが、意外な説明不足が、皆の一般的な理解の妨げになり、共有すべき下地さえ、できていないような場合が、ままあるように、思うんですよ。

例えば、かなりの先達のようなわかっている人(以下、甲と略)にとっては、たった一言で、3 の内容まで含んで当然に理解できることが、1 くらいまでしかわからない入門者のような人(以下、乙と略)には、残り 2 を事細かに示してあげないと、本当に理解が共有できる下地は、作れないと思うんです。

具体的には、こんな風にして。

例えば、A は B だという話があるとする。

甲には、たった一言で済ませて足りることが、乙には、B と言われただけでは、深く具体的にはわからない。より細分化した、残りの C 、D の2個までの内容を含んでいるから。

なので、B と言われただけでは、本当の理解には至らず、実際には、内容をそこそこにしかわかっていないか、まるでわかっていない。

そこそこのわかり方の場合も、前後の文脈や用例から、何となく漠然にしか理解できていない。

従って、A は B だと言ってもその捉え方は、多種多様で一概には言えないと思う訳です。

本来なら、C、D の内容を網羅して、平易に理解しやすく、なおかつ、間にして要を尽くす書き方で、列記しておかないと、共有できる理解の下地は作れないと思うんですよ。

以前書いた各種の読みづらい文章は論外(*1)にしても、甲にとっては、何でこんな当たり前の内容を、クドクドと説明するんだ、とまどろっこしく感じるかもしれない。

しかし、乙にとっては、全体の理解には必要不可欠な内容であり、外すことができない場合があるのではないか。

なので、A は B だ、としても、意思疎通は、表層をなぞったままで、甲と乙の同じ概念の理解度や認識に大きな隔たりがあり、話がなおざりになっている場合が、結構あるのではないかと思う。

実際には、話がほとんど通じておらず、その結果、理解が不十分になっているような。

霊的な話にしても、わかってもらおうと手を尽くした書き方をしないために、結果としてわかりやすさを持ち得ず、説得力が不足となることで、唯物論の人達を、取り込むことができていないような気がする訳で。

霊的な事柄は、それこそ、聞く側の実体験のあるなしで、または、その内容の深さのいかんで、理解度には雲泥の差が生じる可能性があると思う。

実体験がある人とない人では、どうしようもなく、埋めがたい溝があると言えるかもしれない。(*2)

しかも、その内容も、高尚なものから、比較的低級?なものまでと、かなりの幅がある。

そのために、霊感のまったくないような唯物論者には、なおのこと、信用されにくくなっていると考えられる。

そもそも、各人の因縁因果が多種多様に異なり、万人でその体験を共有することは簡単にはできないだろうし、体験した人には当たり前のことでも、未体験の人には、単なる妄言か空想か絵空事にしか、思えないかもしれないから。

なので、完全な理解を共有することは不可能にしても、可能な限り相手(唯物論者側)の立場に立って、誠意と言葉を尽くしておくに越したことはないと思う。

わからん者は捨て置け、とまではならないでしょうが、唯物論者側に歩み寄る姿勢も必要なことだと思うんです。

俺は、理解力にも、才覚にも恵まれなかったせい(多分、過去世でも勉強嫌いで怠け者だった)で、逆に、一般的には当たり前とされながら、見落とされる盲点に気付くことがあるようなんです。

まあ、とはいっても、ほとんどの人は暗黙の了解の下に、十分な意思疎通をしていて、俺の杞憂にしか過ぎないならいいんですけどね。

先のいくつかの文章は、KI さんに書いたつもりではいるのだが、彼がこれを読んでくれるとは限らないし、残りの内容を書けといってくることもないと思うので、霊的なことはほどほどにします。

~~~~~

(*1)以前書いた、追及系の人達のことです。

普通に書けばいいのに、ほのめかして、はぐらかす意地悪な書き方をする。嘲(あざけ)りとまでは言わないが、読者をからかうような態度は頂けないよ。嘲笑の一歩手前だからね。わかっているのかな、彼らには?

思わせ振りなことを書き、論旨がいざ迫真に迫るかと思えば、急に話をそらして内容を断絶させる。この人は、一体、本気で読ませる気があるのか?と疑問に思うよ。どんな横暴?をしようが、俺様の文章にはついてくるから構わないなどと、万が一にも思っているなら、思い上がりですからね。

はじめから、正面切って単刀直入に書くのが憚(はばか)られるために、仕方ない面があるのかもしれないが、長々と前置きをして、本題に入るまでかなりの忍従を強いて、疲れ果てた頃に、やっと本題に入ったかと思えば、不明瞭な書き方をする。散々、鼻面を引き回したかと思えば、こんな仕打ちですか?もう少し、理解力の低い人間にも親切にして下さい。

などなど、です。

今一つは、( 042_平易に - おぶなより ) で俺がキレた、横文字やカタカナ語の濫用ですが、これはまだ底が浅い分、まだマシなのかもしれない。

わかりにくい文章も、文体というか、個性といってしまえば、それまでなのかもしれない。

ただ、理解力の低い人間からすると、読みにくい内容や書き方は、何とかしてくれ、と文句を言いたくなってしまうんだよ。

自然にそうなってしまうのなら、仕方がない。

それこそ、本物の個性だから。

だがそうとは思えない、通読するだけでも、故意にやっているのか!と違和感を覚えるような、おかしな文章の区切り方や、段落の取り方をする書き方も、勘弁してくれ、と言いたくなってしまうのだよ。

できるだけ広範な読者に理解させることを第一に、読みやすさに十分な配慮をして、内容勝負をしてもらいたいのですよ。

いくつか読んだ限りでは、おかしな文章区切りや段落の使い方をしていた人は、その内容からして、わかりやすい書き方ができる能力を十二分に備えているように見えた。

むしろ、あれだけの内容が書けるのなら、平易にして明快、かつ、簡易な書き方ができないのはおかしい、明らかに不自然だとさえ思えた。

なので、( 042_平易に - おぶなより ) にも書いた通り、読みやすさ、理解しやすさを第一義として、極力、誠意を尽くして下さい。

時と場合によっては、頭一つ抜きん出たい、何とか個性を確立したい、との思いが交錯する場合もあるかもしれない。

しかし、ここは一つ涙を飲んで、その労力のすべてを、内容の拡充と、読みやすさへの配慮に振り向けて頂きたいのですよ。

平易で簡潔、そして理解しやすい書き方が均一化されてしまうと、全体主義となり、のっぺらぼうになるのでは?と危惧する人もいるかもしれない。

しかし、これはない、と思います。

私達は神様の分霊を与えられて生きている、つまり、それなりの個性を与えられている以上、創作活動にかかわるところでは、AI にとって変わられることはない、と考えられるからです。

私達の体格や顔にしたって、完全に同じものはないですよね。そっくりの双子さんにしても、必ず性格が異なります。

肉体に宿す、神様の分霊が、異なるものとなる以上は、それなりの個性を持つことになり、性格にも反映されているからです。

これは、当然、考え方にも反映されるので、創作される文章の文体、個性もそれに伴って異なってくるはずです。

なので、個性は残ると思います。

あとは、守護の神霊様のお導きと裁量次第だと思います。

ただし、文章で誠意を尽くすための努力は、必ずしも現世内で報われるとは限りません。

ですが、少なくとも現時点での良い因縁の積み重ねは、来世以降に持ち越しになるので、決して無駄にはならないはずです。

その蓄えは、来世以降に活かせる時がくるはずです。

おそらく、同じような表現に見えても、自然に含蓄に富んだ味のある文章を書けるようになるとか、切れ味鋭い明快な文章が書けるようになる、といった具合に、それなりに、現世の精進が反映されたものが書けるようになると思いますよ。

しかも、神性には適(かな)っていますから、いいことずくめで、まったく問題もありません。

やるに越したことはない、ということです。

まあ、霊性を認めない、輪廻転生を認めない、来世以降なんかない、とする人には、戯言(たわごと)に聞こえるかもしれない。

ただ、これからは、もう文章力があっても、その性格や行いに、多大な問題のある人は、相応しくなくなってくると思うのです。

今までのように、どんなに真善美に悖ろうが、力さえあれば、実績(それなりの文章が書ける、または、内容のいかんにかかわらず売れる)さえあれば、何をしても認められる、許される時代ではなくなってくると考えられるのです。

破天荒、ハチャメチャこそが天才といった時代ではなくなり、個性の強さは、真善美の範囲内に収まるものになるだろう、と。

それこそが、霊性の向上だと考えられるから。

明るいのや、面白いのは構わないでしょう。

ただ、明らかに性質が悪い面白さは、自ずと淘汰されていくことになると思います。

(*2)私達の霊性がどれだけ開いているか、言い換えると、神性を多い尽くす業想念がどれだけ払われているか、も因縁因果次第でしょう。

従って、それに伴う霊的な体験も、高尚なものから、そうでないものまで、それ相応の幅がある、となりますね。

霊的な体験が、まったくないような唯物論者に、厚く信頼されるためにも、その程度は高い方がいいですね。

そのためにも、地味にはなるかもしれませんが、人格を向上させることが不可欠となります。

従って、いつもの通り、世界平和の祈り一念の信仰による、霊性の開発を、お願い致します。

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①追記: 2024/04/06 02:47
②追記: 2024/04/06 02:49
③追記: 2024/04/06 02:51
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。