おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

083_種の保存2

前回 ( 082_種の保存 - おぶなより ) の補足です。

前回の(*1)で、男性のあり方に関して、神様の分霊(わけみたま)を頂く(宿す)者としての、主体のあり方について触れました。

むろん、こうしたことは、女性にもまったく同様に当てはまります。

神様の分霊を本体とするのは、男性とまったく同じなので、真善美に悖る想念と行為をすれば、女性だからといって、固有の優遇される特権や免罪符など、一切、存在しないことになります。

ただ、悲しいかな、男性には、性欲の衝動の強さに負けて、女性の体だけが目的で、お付き合いや結婚をダシ(誘因)にする人が、それなりにいるようです。

既述のように、男性が最終決定権を握っている(特に結婚)こともあって。

しかも、結婚となると、式だけでも大変な費用がかかり、その後は、場合によっては、双方の両親、子宝に恵まれれば子供と、ただでさえワガママな奥さん(ごめんなさい)に加えて、たくさんの責任を負わされ、お金と時間も、ままならなくなることになる。

ましてや、今は厳しい時代。

それなのに、気楽で自由?な出会いや、恋愛の真似事程度からはじめたいのに、いきなり結婚を見据えて、真剣に臨むなんて真っ平だ、という人も多いのかもしれない。

まあ、平たく言ってしまえば、まだまだ、遊びたいのに、そんな重責を背負わされるのは嫌だ、ということでしょう。

または・・・。

こんな苦労をさせられるくらいなら、没頭できる趣味や別の生き甲斐に、人生を捧げる方がずっといい、とする人も、それなりにいるのではないでしょうか。

女性の実態が、ある程度わかってしまうと、せっかく独身ながらも、充実した日々が送れているのに、あえて無理をして、今の生活を崩したくない、と。

まだまだ、遊びたい人は、いずれはしかるべき家庭を持ち、子孫も残したいけれど、結婚は遊び尽くした後?に、理想の相手やそこそこ妥協できる相手が、おもむろにあらわれてからでいい、と都合のいい考え方をしているのではないですか?

特に、女性のように出産といった縛りのない男性は、ある程度、年齢を経ても大丈夫、余裕はある、と高をくくっているような。(*1)

だから、身体の相性チェックを体(てい)のいい口実にして、女性の体を求めて軽いノリで迫る、そして、お付き合いや結婚はほのめかすだけで、絶対に確約だけはしない、といった狡(こす)い実態があるのでしょう。

性欲だけは満たしたいが、責任は取らず、いつでも逃げ出せる準備だけは怠らずに・・・。

他方、女性の方も、そこそこの恋愛経験を積んでから、出産の期限を踏まえた家庭の構築を見据えて、相手のスペックをにらみながら、さて、そろそろ、遊びを卒業して、真剣交際を、と考える人がそれなりに(いや、かなりだろう)いるんでしょうね。

このような女性のあり方は、上記の男性のあり方に、酷似(こくじ)しています。

双方とも、遊びと結婚による家庭の構築を完全に分離させ、使い分けているからです。

こうしたやり方は、当然に相手も使い分けますね。

つまり、トキメキや体目的だけの恋愛や恋愛の真似事と、各自の思い描く理想の恋愛や結婚では、相手を選び分けることになるのですから。

従って、結婚以外の相手は、いわば、使い捨て要員になってしまうんですね。

しかも、こうした人達は、おそらく相手も同じような心づもりの人間なら構わないじゃないか、とか、この相手は自分より格下?だから、結婚までの助走期間にはうってつけ、くらいにしか考えていないのでしょう。

俺が以前書いたのは、このような人間のあり方を、神様の分霊を本体とする肉体人間としてのあるべき姿を、完全に踏み外しているあり方を、ここでは除外している、としたのです。

なぜなら、遊びの期間に相手になった人は、遊びの主体側から見れば、使い捨て要員であり、モノ扱いした対象者であることには、何ら変わりがないのだから。

以前、ゴブチ(傲慢、侮蔑、嘲笑(冷笑含む)の略)の輪廻転生についての話の中で、私達肉体人間は、神様の分霊を本体とするために、真善美に悖る想念と行為をしてしまうと、その本来のあるべき姿を修復するために、あがない(*2)として、制裁ともいうべき大変な目に遭うことになるんだよ、といった内容を述べてきました。

そのために、( 想念→行為→結果 ) までの、時間がかかるこの世(現界)で、肉体をまとって、過去世(前世、前々世、・・・の総称)で為(な)してしまった真善美に悖る想念と行為を清算するための、修行に出されて来ているんだよ、とも。

ただし、過去世の記憶を消され、神様の御心に沿った隔世(=生まれ変わり)を経ながら。

もちろん、神様はお優しいでしょうから、私達にそれなりの余裕を与えて、現界を楽しむことも、容認されているのかもしれません。

しかし、私達肉体人間の本体が、神様の分霊であり、この世の生活の基本はあくまでも修行となるのですから、上記のような、男女の恋愛や結婚に対するあり方は、是(ぜ)とする訳にはいかない、となってしまうんですよ。

もう少し今様(いまよう)に言えば、

この世に生を受けた

=修行に出された

=悪い因縁の解消(負のカルマの清算)に来ている、

のですから。

あれでは、因縁の解消どころか、さらに悪い因縁を積み増し(累積)することになってしまうんですよ。

厳しいですよね。

でも、仕方ないんです。(*3)

こういった仕組みになっている以上は。

いにしえの妙好人のように、できた(=霊性の開発された)人達ならば、ああ、仏様(神様のこと)が、修行としての、現界でのどのような苦難でさえも、過去世での悪い因縁を積んだ至らない自分を救いとって下さるためのおはからいだ、ありがたい、と素直に感謝できるんですけどね。

しかし、現在の私達には、このような人は、ほとんどいない、例外中の例外でしょう。

まず、いない。

絶無(ぜつむ)に近いのかもしれない。

もし、存在したら、それこそ、奇跡の人かな。

それくらいに、神様を心の底から信じ切る、厚い信仰心を持つのは、大変なことだと思う。(*4)

とは言うものの・・・。

まあ、こういった話をしたところで、この世の今までの人生で、不可抗力で苦しんだことがほとんどないような人達には、まるでピンとこないかもしれない。

何バカなこと言ってるんだ、と。

実際、ああいった男女が、この世の苦難を味わうのも、まだまだ、先のことかもしれませんからね。

まあ、俺としては、説教というよりも、世界平和の祈り一念の生活による霊性の開発で、少しでも現状を修復させて、来世以降の未来に貯金をする方法があるよ、と覚えておいてほしいんです。

説教は基本的に無効だから。

で、くどいほどに、ことあるごとに、何度も取り上げてきたんです。

潜在意識には記録してもらえますが、さらに加えて、顕在意識にも、心の片隅にでも、何とか引っかけて、留め置いてもらいたいからです。

追及派の人達にキツいことを書いたのも、そうです。

お気持ちは、ごもっともなんでしょうけれど、真善美に悖る想念と行為たる、業想念を積むだけになることはやめて、少なくとも、祈りを並行してはじめて、次第にそのあり方を変えていってほしい、と。

将来のとある日?に、唯物論で手詰まりになり、万策(ばんさく)尽きてしまったら、ああ、そういえば、こんな生き方があったな、と思い出してもらいたいからです。

今すぐに、祈りを実行して下さるか否かは別にしても、とりあえずは、知っておいてほしい、と思います。

~~~~~

(*1)男性は、精子は毎日作られているから新鮮?で、年齢を経ても大丈夫、と高をくくっているかもしれません。

しかし、その精子を作る母体(ここでは、精子を作る男性の身体の意)が、肉体的にそれなりに衰えていく以上、何らかの影響は必ずある、と考える方が、明らかに自然ではありませんか?

例えば、精子の形が変わる(=長くなる)とか、生まれる子供の体が弱くなるとか、その子が何らかの病気に罹患(りかん)する確率が上がるとか。

これは、一体、いかなることか、と考えたら、その原因は、作られる精子の質、従って、その精子を作り出す素地=肉体に、かなりのものがある、と考えられるんですよ(まあ、あまりに若いと、精神面ができていないので、こちら方面の影響は、どこまであるのかわからないんですが)。

どんなに、精子を作る元となる男性の、容姿、性格、才能、健康状態が、高い水準であったとしても、生まれてくる子供にそうした危険が増える可能性があるのは、致し方ないと考えるのが妥当でしょう。

それと、もう一つは、子供が大人になった時の年齢差ですね。

これは、素人考えですが、子育ては大変だと思うんですよ。

子供のエネルギーは、半端じゃありませんからね。

女性が高齢出産を避けたがるのは、もちろん、母体の安全が第一だからなのでしょうが、託児所に預ける人が多い現代でも、子供と接するには、かなりの手がかかるし、ある程度の若さがあり、それなりに対抗できる体力がないと、難しいからじゃないですか?

あまりのことに、もて余してしまい、ブチ切れて、児童虐待になっても困りますからね。

以前、ある小学校の女性教諭に、毎日が戦いだ、という話を聞いたことがあるんです。

しかも、その人は、若くて元気のある、活発な女性だったんですよ。

こういったことをも加味すると、年齢がそれなりにいった場合には、さまざまな面において、ある程度の余裕がないと、子育てはかなり厳しいものとなるのではないか、と考えられるんですね。

といった次第で、結婚に関しては、やはり、ある程度の適齢があると言わざるを得ませんね。

従って、特段の事情がない限りは、結婚が可能な環境が整っている人の場合には、あまり、先伸ばしにしない方が無難である、と考えられます。

(*2)罪や過ちを償(つぐな)うために、金品を差し出すこと。償いをすること。罪滅ぼしをすること。

ここでは、償いをするの意。

(*3)俺は、霊性が低いので、仕方ないと書いたが、妙好人の人達はもちろん、そこそこに霊性が高い人達ならば、普通や当たり前のことになるだろう。

(*4)もし、気になった方、お知りになりたい方は、五井昌久著 生きている念仏 (白光出版) の前半に書かれている、いくつかの妙好人の話をお読みになって下さい。

ああいった、神様(阿弥陀如来様)を、心から信じ切った生き方は、そう簡単にできるものではありません。

巷での、やれ、知識だ、論駁(ろんばく)だ、と業想念に明け暮れているのを見るのが、本当に嫌になる。

現在は、霊性で、彼らに匹敵(ひってき)する信仰者は、多分、存在しないだろう。

信仰の指導者の中にさえ、いないかもしれない。

万が一、いたとしても、極めて稀だろう。

なぜならば、彼ら妙好人のような信仰者のあり方は、とても地味な形が求められるからだ。

信仰はあったとしても、他者を批判し、裁きまくる排他的なものが、大半、いや、圧倒的大多数であろうからだ。

なので。

真善美に悖る想念と行為たる、業想念を生じさせない信仰、とはいうものの、皆無は到底できない相談なので、可能な限り抑えるもの、しかも、段階的であり、無理を生じさせにくいやり方として、

世界平和の祈り一念の生活による霊性の開発をすすめているんですよ。

なお。

妙好人に関する書物は、他にあるにはあるのだが、唯物論的な視点が抜けきらず、唯心論に徹し切れていないところがある。

そのために、あまり意識せずに読むと、混乱してしまうと思う。

どうしても読みたい場合でも、ここは、生きている念仏の読み込みで、まずは、唯心論に絞った捉え方を確実に修得する必要がある。

なので、祈りの実践と、唯心論の完全な会得をしてからにして頂きたいと、切に願う。

ところで、宗教家の五井昌久さんもそうなのだが、妙好人の人達のこれらのあり方を読んでいると、彼らの世界観は、神様一元論である。

ゾロアスターに端を発するもののような、善と悪の二項対立のような悪魔を認めていない。

だから、ほとんど、責めたり、裁いたり、といった真善美に悖る想念と行為である、業想念を生じさせることがない。

徹底して、神様を信じ切り、従い、お任せする。

そして、ありとあらゆることに感謝する。

私達が、神様から来たものであるならば、皆が神性を発揮できれば、きっと地上天国は訪れる。

道は、果てしなく遠いかもしれないが、そう思わされる信仰の仕方だ、とつくづく思う。

だが、俺は・・・。

俺は・・・。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

①追記: 2024/04/06 13:07
②追記: 2024/04/19 21:20
③追記: 2024/04/19 21:24
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。