さて、今まで、さんざんに男女関係やら何やら、余分なことを書いてしまった。
ここで、あと三つだけ(多分)書いて、一区切りとします。
また、俺様主義の勝手なホラ話になりますが、あらかじめ、ご了承下さい。
そして、そのあとから、お釈迦さんの言動なり、人なり、を探っていきたいと思います。
まず、その一は、みんな同じでなくても、いいのではないか?ということ。
例えば、売らんかなの本のオビ。
○○万部突破!
有名人の○○氏推薦、あるいは、激賞!!
・・・
俺は、物心ついたころから、少しトロかった。
優等生にもなれず、小児喘息の病弱で運動オンチ、中以上?の主流には、まるで縁がなかったためか、へそ曲がりになってしまった。
良い子?
優等生?
人気者?
関係ねえや、そんなの。
どうせなれっこないんだから、しょうがねえや、とあきらめから、ヒガミも徐々に薄まり、執着もほぼ消えていたように思う。
ま、モテには縁がないのは残念だけど、のんびりテキトーに行きゃあいいやって。
友達と無心で遊ぶのも、とても楽しかったし。(*1)
こうした幼少時代を過ごして来たたためか、上記のような煽(あお)りの宣伝オビ広告を見ても、まったく心ひかれない。
だって、どうせ主流派?には縁がないんだから、流れを外れようがなんだろうが、どうでもいいもの。
関係ないからね、干渉されない限りは。
常識や権威とされるものに、強い猜疑心(さいぎしん)を抱くようになってきた最近は、なおさら。
何それ?
それが、どうした?
何なんだよ?
としか、思えない。
で、以前、ちょっと書いたが、女性はどうも群れをなす、強迫観念にとらわれぎみになることが、多々あるようだ。
非常に残念。
よく言えば、協調性が高く、平和主義といったところか。
もし、太古に皆で群れをなして身を守ることが必須で、これが歴史上、連綿として引き継がれたいきさつがあったのなら、仕方がない。
やむを得ないところ。
しかし、その気になりさえすれば、学習能力は高いし、男性よりも我慢強く、根気もある(→従って、学業優秀)ので、こういった習性に縛られるのは、とてももったいないと思うのだ。
この縛りさえなくせば、もっとのびのびした、自由でほどけた判断ができるようになり、それなりの学びをすれば、こうしたものに振り回されない、個を確立することは、十二分にできるはずだと思えて仕方ない。
あと、もう一つは、衝動を制御できるようになること。
性的な衝動は、男性の専売特許のようにとらえる向きが多いのかもしれないが、俺は違うと思う。
実は、女性の方が、もっと激しく、はるかに深く広大な衝動を持っていると思うのだ。
ただ、これは、深く深くしまい込まれ、数々のオブラートに包まれ、用意周到で天才的で鉄壁な防御のために、決して表に出てくることがないだけだ、と思っている。
この、とてつもない、ライオンをもしのぐような衝動さえ制御できて、先の縛りをなくすことと、合わせれば、女性は変わることができる、と。
そうすれば、むやみにまわりをうかがいながら、行動を合わせることも激減できて、だいぶ様相が、変わってくるように思えて仕方がない。
もし、このような女性のあり方が、神様の御心から、さまざまなお考えのもとに定めれたものならば、もう、あきらめるしかないが。
人間なら誰しもわかり合うのは、もちろん、いいことだろう。
だが、これは価値が高い、皆で認め合って、各自の価値観で味付け消化吸収した上で有用に使える、というものならいいのだが、そうでないものまで、無理矢理周りに合わせて取り入れ、結果として振り回され、あとからむなしさを覚えることはないのかな、とよく感じるのだ。
せっかく、その気になりさえすれば、個々の物事に対して、高い判断力をはぐくみ、周りに合わせての画一的な判断や行動をしないようにできるはずなのに、だ。
女性の解放で、仕事も恋もバリバリと、と考える人も多いかと思う。
しかし、この恋がくせものなのだ。
先に述べた、女性の衝動が、恋愛、結婚、妊娠、出産に至るまでにかかわる一連の出来事で揺さぶられ、深くそのあり方に影響を及ぼしているように思えるからだ。
女性には、恋と浮かんだたけで、衝動からはじまる一式が、動き出す。
そして、生理などの第二次性徴で、否応なしに女性特有の性別を意識することになり、それなりの異性に出会えば、心身ともに反応してしまう。
女性が恋をすることが、悪いと言っているのではない。
恋を生きる女性は、確かに、えも言われぬ魅力を放つ面があって美しいので、これを封印せよ、というのは、あまりにも酷な話かもしれない。
しかし、これが動き出してしまうと、多方面にその影響が出てしまう。
仮に、影響が抑え込めて、支障なく過ごせているかのように見えたとしても、フロイト流に言えば、潜在意識下に押し込めただけなので、いずれ何かしらのきっかけがあれば、表出する可能性を残してしまうのだ。
たとえ、何十年たったとしても。
まあ、唯心論的に言えば、過去世からの因縁と、現世での新たな因縁づくりの合わせ技なのだが、これを何とか祈りで浄めて制御する。
または、守護霊さんのご加護を通して、無駄に過ぎる恋愛もどきの行動は、なるべくなら避けるようにお導き頂くようにする。
そして、普段からの生活で、真善美に悖る想念と行為を多大に生じさせる、テレビをはじめとするマスコミ情報を、可能な限り減らして、最低でも取捨選択をする。
女性が、お姫様願望のためか、王室の話題や有名人の興味本意の噂話(ゴシップ)が好きなのは、仕方がないのかもしれないが、売るためには、どんな刺激も辞さないかのように見えるコマーシャルも含めて、長く見ていると、どうしても、真善美に悖る想念と行為たる業想念を積み、霊性が落ちてしまうと思うのだ。
なので、芸能関係の離婚や不倫などの話題に振り回されるのは、もったいないように思えて仕方がないのだ。
離婚や不倫など、人であれば、それなりにあることだろう。
しかし、これは、あくまでも個人の問題だ。
それを、有名人だからと、ほじくり、暴(あば)き、はやし立て、一体、何の価値がある?
成功して有名人となった他人の不幸は蜜の味、ということなら、やめた方がいい。
陰私を暴くのがよくないのはもちろん、これに同調するような感情想念を抱くのは、明らかに真善美に悖るし、来世以降に悪い影響を残してしまうからだ。
こうした類いの、あたかも洪水のような情報づけにされてしまうために、女性が本来、潜在的に持っている能力を、まったく眠らされているのではないか、と思うのである。
そして、女性が変われば、男性も変わる。
否応なしに、変わらざるを得なくなるだろう。
女性と同じことをしているだけでは、その存在理由が脅かされてしまうからだ。
端的に言ってしまうと、男性に求められるものは、決断だと思う。
判断力のことだ。
前にも書いたが、女性はその身を守るために、自分が傷つかないよう、言葉巧みに、高度な防御策を講じることが多い。
その傷つくことの中に、引責もあるのだが、やはり、これも回避したがるように見える。
引責は、さまざまな負担、場合によっては災難さえも甘んじて受ける可能性があるからだ。
そのために、自らを傷つけないように巧妙に立ち回る女性の場合、責任を回避する、すなわち、引責しないように行動するように思える。
そうした傾向があるので、男性はことの成否にかかわらず、判断にもとづいて決断をし、さらには、その結果責任を引き受ける役割を担(にな)わされている場合が、かなり多いのではないかと思う。
その判断だが、これは結果を伴う以上、それなりに尽力したものでないと、悔いを残すことになる。
そのために、各自で持てる力を駆使して、力を尽くすはずだ。
しかし、どうも最近は、まわりの顔色を見て、空気ばかりをうかがい、個々に判断するというよりは、上意下達ならぬ権威下達?になっている場合が多いように見えなくもない。
鶏口(けいこう)となるも牛後(ぎゅうご)となる勿(なか)れ、という故事成語がある。
大きな集団に従って生きるよりは、小さな集団でもよいから、そのリーダーになれ、という意味だ。
今は、さまざまな面で、これが難しくなりつつある。殊に、力関係が顕著だ。これも、シオンの議定書のような支配が行き渡りつつあるから、仕方ないのかもしれない。
しかし、それ以外の分野まで、こんな風潮が波及してしまったら、切磋琢磨による研究や試行錯誤も行われなくなり、次第に停滞、そして硬直、さらには、衰退の流れが起きてくるのではないか、と思うのだ。
そのようになってしまえば、判断の元となる材料そのものの質が低下して、結果として、最終的に判断そのものの質まてもが低下してしまう、と考えられる。
あくまでも、既存の権威や前例ばかりに縛られていて、その踏襲を繰り返す。
たとえとして、適当かどうかわからないが、コピーを考えてもらいたい。
コピーも最初のうちは、ほぼ原本に等しい高品質なものがとれる。
しかし、コピーしたものを、次の原本として、これを繰り返していくと、次第に品質が落ちてくる。
文書や図柄であれば、徐々にかすれてきたり、文字が歪(ゆが)んできたり、とだんだんに、最初の原本に比べて忠実なコピーができなくなってくる。
いわば、劣化コピーとでも言うべき状態になる訳だ。
前例の踏襲も、人間のすることだから、完璧とはいかないこともあるし、時代環境の変化から、踏襲が完璧でも、結果としてうまくいかなくなる場合も出てくるだろう。
要は、劣化コピーとまではいかないまでも、何らかの衰退を招くのではないか、ということ。
男性に残された?であろう、この決断、その元となる判断が、漸次(ぜんじ)低下していくとなれば、その女性に対しての存在意義が、どうなるのか、と問いたい訳。
だから、みんな同じことばかり、まわりの顔色をうかがいながら、歩調を合わせなくても、いいのではないか?
そして、そうばかりしていると、場合によっては、判断の質の低下を招き、ひいては、無茶苦茶に飛躍するが、男性の存在意義も、問われることになってくるのではないか、とふと考えることがある、今日この頃です。(*2)(*3)
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(*1)小学校時代は、よく遊べて楽しかった。
どうしようもなく、性格の腐り果てた悪魔野郎のいじめや、顔を見るのも苦痛で嫌な先公は一人いたが、それ以外は本当に気楽で楽しかった。
(*2)とは言うものの、これはあくまでも唯物論の範疇(はんちゅう)で考えた場合の話。
理屈だけで考えたら、俺の場合はこうなりました、ってこと。
まあ、力の方面に関して言えば、従来の話し合いをはじめとする唯物論での自力救済は、明らかに非力なだけでなく、可能性もほぼゼロ、なのに、真善美に悖る業想念だけは、大量に生じるといった具合で、霊的に見れば、失礼ながら一つもいいことがない。
唯物論で、ここまで押しつまった以上は、
~俺達は閻魔帳を手にして悪の心をなくした特注仕様の元祖魔人ブウにはなれない=唯物論の世直しは絶対に不可能~
だから、神様にすがるより他には道がない、と考えざるを得ないのですよ。
神様におすがりして、祈り倒し、なおも力至らなかったら・・・。
これでダメだったら、もう本当に仕方がない。
これで最善を尽くして、なおかつ、ダメだったら、場合によっては、神様そのものの存在が疑われる訳だし、あきらめるしかない、と。
だから。
世界平和の祈り一念の生活による霊性の開発をお願いします。
(*3)和を以(もっ)て貴しとなす、または、例は之(これ)和を用(も)って貴しと為(な)す、はあくまでも、神様級の人が言うべき言葉だと思う。
業想念にまみれた、肉体人間のご都合主義で用いられるほど、危ういものはないからだ。
ゆえに、軽々しく用いるべきではありませんね。
これは、肉体人間なら、霊性の開発がされ尽くされたような人だけが、はじめて言える台詞(せりふ)。
そして、完璧コピーが是となるのは、神様の御心に沿った場合だけになるだろう。
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追記: 2024/04/06 13:14
〜訂正内容〜
本文を加筆・訂正しました。