おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

194_原仏12ー7

前回 ( 193_原仏12ー6 - おぶなより ) の続きです。

私が勝手にまとめて書いたことについての中村さんの経典引用をいくつかあげてみます。

まず、その前に、背景として、当時はお釈迦さんの台頭前であり、既述の六師の出現をはじめ、百家争鳴とは言わないまでも、かなり世の中の思想状況が、乱れていたことを踏まえて下さい。

では、

Ⅱ 人生の指針
第一部 人生の指針
第一章 ブッダのことばー「スッタニパータ」 (2)
の、
一 真理について

からです。

具体的には、パーリ語聖典の三蔵である、律蔵、経蔵、論蔵の中の経蔵は、5 つの集成書から成り、5 番目の小部(クッダカ・ニカーヤ)が、15 の部分から成りますが、この中に、スッタニパータ(古い教え)、ダンマパダ(法句経)、ジャータカ(お釈迦さんの過去世物語)などがあります。

中村さんは、その中の、スッタニパータを取り上げています。

第 八七八 以下です(以下、段落分けなどの改変あり)。

世の学者たちはめいめいの見解に固執して、互いに異なった執見(しゅうけん)をいだいて争い、みずから真理への熟達者であると称して、さまざまに論ずる。 
ー 曰(いわ)く「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である」と。

(八七八)

かれらはこのように異なった執見をいだいて論争し、「論敵は愚者であって、真理に達した人ではない」と言う。
これらの人々はみな「自分こそが真理に達した人である」と語っているが、これらのうちで、どの説が真実なのであろうか?

(八七九)

次は、あまりにも長いので、中抜き(中略)します。同義反復で、同じようなことを言い換えている内容が続くからです。

もしも論敵の教えを承認しない人が愚者であって、低級な者であり、智慧の劣った者であるならば、これらの人々は(各自の)偏見を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。

またもしも自分の見解によって清らかとなり、自分の見解によって真理に達した人、聡明な人となるのであるならば、彼らのうちには知性のない者(愚者)は誰もいないことになる。
かれらの見解はその点で等しく完全であるからである。

(けれども)諸々の愚者が相互に他人に対して言うことばを聞いて、私は「これは真実である」とは説かない。
かれらは各自の見解を真実であるとみなしたのだ。
それ故(ゆえ)にかれらは他人を「愚者」であると決めつけるのである。

(中略)

わが説のみに清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。
このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執著(しゅうじゃく)し、かの自分の道を堅く保って論ずる。

自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようか。
他(人の説)を、「愚かである」「不浄の教えである」、と説くならば、彼は自ら確執をもたらすであろう。

一方的に決定した立場に立ってみずから考え量(はか)りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。
こういう一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。

(以上、八八〇 ー 八九四)

どうですか?

これは、みんなが、めいめい勝手なことを主張して、分裂していることへの確かな処方箋になっていると思いますか?

なってませんよね?

堂々巡りしながら、ただ主張をやめろ、執着を捨てろって言ったって。

自己保存の本能に起因しているのだから、なかなか、自説は引っ込めませんよ。

ただ、言っていることは、

肉体人間、特に悟りを開けず、霊性の高くない肉体人間は、

自分の考えが正しいと言い張りがちであり、

しかも、なかなか主張を引っ込めることはなく争いがちであり、

論敵を非難して、蔑(さげす)みがちだという習性がある、

となりますけどね。

で、中村さんが次に出してくるのは、「毒矢のたとえ」なのですが、これについて、別途、書きたいことがあるので、ここで区切ります。

~~~~~

・百家争鳴~ひゃっかそうめい~多くの学者・作家などが自由に論争すること。

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追記: 2024/04/14 08:50
〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。