前回 ( 222_原仏13ー11 - おぶなより ) の続きです。
Ⅱ 人生の指針
第一部 人生の指針
第二章 真理のことば ー ダンマパダ
二 「ダンマパダ」のことば
になります。
なお、便宜上、本でなされている内容及び解説を、(A) と記します。また、私の文を (B) と記します。あらかじめ、ご了承頂きますよう、お願い申し上げます(段落分けなどの改変あり)。
ー 数にちなんで ー
(A) 第 八 章 には千や百といった、数にちなんだ詩が集められています。
無益な語句を千たびかたるよりも、
聞いて心の静まる有益な語句を一つ聞くほうがすぐれている。
(一〇〇)
(A) なるほど、ただ言葉をたくさん聞いたからといって、心が楽しくなる訳ではありません。
聞いて心が静まる有益な語句を一つ聞くほうが優れているのです。
(B) 語る側に目を向けると、語るという形で産出(アウトプット)するよりも、その元となる土台が充実していなければ、当然に語りの中身が伴わないものとなる。
だから、まず、下地を整えて充実させておく方が先決で、そのためにも厳選された良き言葉を取り入れておくことが必要になる、ともいっているようにも取れます。
そうした、良き言葉に接するためには、やはり、ただ漫然としているだけではダメな訳で、それなりの自分からの働きかけ、そうした良き(真善美に悖らないと自然に感じられる)言葉を求めて、試行錯誤して、努力・研究しなければならないでしょうね。
この業想念だらけのご時世、棚ぼたで、良き言葉は得られませんから。
ということは。
良き言葉を聞くためにも、それなりの下地づくり、準備が必要ということにもなります。
過去世の因縁も踏まえるなら、祈りと感謝行で少しでも過去世からの因縁を浄めておき、現世(この世)でも普段からの感情想念を乱さないための前向きな努力を準備として行っておくことが望ましいといえるでしょうね。
次です。
戦いで幾千の人々に打ち勝つよりは、
一人の自己に打ち勝つものこそ最上の勝利者である。
(一〇三)
(A) もし自己に打ち勝って、自己を確立することができたら、それで目的が達せられたということが言えるでしょう。
非常にはっきり言われています。
(B) 自分の五感にまつわる欲望を断ち切り、感情想念を乱さないようにして、良き行いにつとめる。
これは、戦いでいかなる多勢を倒すことよりも難しいことだ、という意味合いでしょうか。
次です。
素行が悪く、心が乱れていて百年生きるよりは、
徳行あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。
(一一〇)
(A) その一日というのは死なない境地です。
(B) 前に別のところ ( 214_原仏13ー3 - おぶなより ) で書きましたけど、神様から与えられている生命を有意義に、より有意義に生かす方が価値があると同じように感じます。
素行が悪いということは、素行が真善美に悖る、神様のみ心から外れまくっていることばかりするので、現世、来世以降とますます自分にとって良くないことになる(=良くないことが起きてくる)。
過去世の悪い因縁を果たすばかりではなくて、おそらく現世でも真善美に悖る想念と行為をかなり重ねる可能性が高いので、好ましくないものとなる。
そうすると、周囲の人々にもそれなりの影響を及ぼすことになるから、やはり、好ましいとはいいにくくなってしまう。
そうした形で、百年を生きるよりは、やはり、世界平和の祈りと守護の神霊様への感謝行が自然に生活に溶け込むようにした方が、好ましいと思います。
徳行あり思い静かな人は、周囲にいい影響を及ぼすと考えられるので、やはり少しでも長い期間、そのままでいて下さることが望ましいとなるのでしょう。
中村さんは、死なない境地としているところから、不死の命=永遠の命=神様の命、を感得した、悟りを得た人と解釈しているように見えます。
次です。
不死の境地を見ないで百年生きるよりも、
不死の境地を見て一日生きることのほうがすぐれている。
(一一四)
(A) これは(上記 (一一〇) と) 同じ趣意です。
(B) 中村さんは、結果的に上記と同じことを言っている、としています。
ー 悪について ー
(A) 第 九 章、第 十 章では、悪や暴力について述べています。
人がもしも悪いことをしたならば、
それを繰り返すな。
悪事を心がけるな。
悪がつみ重なるのは苦しみである。
(一一七)
まだ善の報いが熟しないあいだは、
善人でもわざわいに遇(あ)うことがある。
しかし善の果報が熟したときには、
善人は幸福(さいわい)に遇う。
(一二〇)
(A) これは究極の意味で幸せを得るということです。
(B) この世で生きている私達には、いいことばかりはありません。
人間=肉体人間ととらえているかぎり、生老病死、病争貧苦は避けられません。
人間の肉体としての寿命は有限だし、そもそも、過去世において、真善美に悖る想念と行為を行って霊魂魄につけた汚れを落とすためのあがないとして、この世に修行に出されてくるのが原則なのだから。
善人でも、災いがあるというのは、この世に生まれた以上、何らかのあがなうべき過去世の悪い因縁がある、つまり、何らかの病、争、貧、苦があるのが、普通だからです。
上記の経典を見る限り、どうも輪廻転生を前提としていないように感じます。
輪廻転生を前提として、読み替えるならば。
過去世の因縁として行ったか、現世で新たに行ったかは、わからなくても、とにかく、悪を想い、行うことはやめた方がいい。
やめるべきである。
真善美に悖り、神様のみ心には外れた行いは、結局は自分に返っきて苦しむことになるだけだから。
現世で新たに行ったものならば、(原則として)来世以降にそのあがないをさせられるはめになる。
しかも、来世以降は過去世(=現世で行った悪しき行い)の記憶は消されているから、あたかもいわれもなき無実の罪の償いのような形であらわれてくる。
これはものすごくつらいのです。
だから、やめるにこしたことはないといえます。
善の果報が熟する、すなわち、現世で良き行いをして、その良き報いが時を経てあらわれてくるのであれば、これは本当にわかりやすいし、幸せですよね。
しかし、大半はそうだとは思えないんですよ。こうした現世(=この世)での、因果応報は原則としてあまりないと思われるからですよ。
正当と思われる努力をいくら積み重ねても、報われる人と、報われない人がいる。
しかも、(過去世の因縁によって)各個人の境遇や能力は、生まれながらにして千差万別に異なっている。
各個人の性格や容貌がそれぞれに千差万別にわかれているように。
だから、現世で徳を施すとしても、見返りを期待しない方がいい。
良きことをするならば、あげっぱなしを心がける方がいい。
ギブのみ。
テイクは期待しない。
霊性が相当に開発された人なら、こうなれるだろうけど、普通は難しいと思うので・・・。
もしかしたら、来世以降を期待するかもしれないが、そんなことは意に介さないのが安全だから、無視するに限る。
とらぬ狸の皮算用はしないに限る。
なので。
悪はやめるようにして、善は見返りを求めずに自然な形でできるようにするのが、幸せにつながるものと考えられます。
次です。
大空の中にいても、
大海の中にいても、
山の中の奥深いところに入っても、
およそ世界のどこにいても、
悪業から脱(のが)れることのできる場所は無い。
(一二七)
(A) 恐ろしいものです、必ず悪業の報いはあるものなのです。
そして、自分に対する反省が、他人に対する倫理の出発点です。
(B) どこにいても、どこまでいっでも、悪い因縁は果たさなければならない、逃れられない、ということでしょうか。
次です。
すべてのものは暴力におびえる。
すべてのものは死を恐れる。
わが身にひき比べて殺してはならない。人を殺させてはならない。
(一二九)
(A) ここにわが身に引き比べてという表現がありますが、わが身に引き比べて、他人の身になって考えるのが利他行の成立する出発点なのです。
自分が殺されるのが嫌だったら、人を傷つけてはなりません。
(B) これは、人間=肉体人間の肉体人間観を元にしていると思われます。
肉体人間は、自己保存の本能があり、これはあまたの輪廻転生を通して身体に深く染みついている。
だから、身の保身をまずは第一にはかる。
何よりも大事な最優先事項として。
そうした場合、自らが損なわれること、ましてや、殺されることなど恐怖以外の何ものでもない。
だから、相手の立場に立っておよしなさい。
あなたもされたくないでしょう。
だから、絶対にしてはなりませんよ、のように読めます。
しかし、究極的には、これは自らの肉体を計算に入れた利害得失計算の一種にはなりはしませんか。
はっきり言えば、唯物論そのものですよ。
あくまでも発想がこの世の目に見える損得勘定。
私達肉体人間は、神様の分霊を本体とする神様の子供です。
神様は自らのお命をわけられて、肉体人間に、いわば、生命力をお与えになっているのですから、その子供同士がケンカしたり、争ったり、傷つけあったりすることを、望まれているはずがありません。
肉体人間の各個人に果たさなければならない因縁のために、霊魂魄を磨いて、正しい神様の子供に直すために、病、争、貧、苦のあがないは避けられないものとしてあったとしても、皆さんが愛に満ちて、調和することを望まれているはずだからです。
だから、やられるのが嫌だからというのではなくて、そもそも、みんな神様の子供なのだから、霊魂魄の兄弟姉妹、争いあったり、傷つけあったりしてはいけない、これを大元として考えるべきだと思うのです。
不平等、不均衡や矛盾が多い厳しいこの世ですが、元は神様の世界にある、と心にとどめておくことが、必要なのではないでしょうか。
次です。
こわれた鐘のように、
声をあらげることがないならば、
汝は安らぎに達している。
汝はもはや怒り罵ることがないからである。
(一三四)
(A) こわれた鐘のように、声をあらげるというようなことは、よく世の中にありますが、本当に身を修めた人はそういうことはしません。
(B) 声をあらげる、罵る、というのは、興奮状態、しかも、怒りの興奮状態でしょうから、業想念の極致です。
霊性が相当に開発された人ならば、まず、あり得ない行いでしょう。
ただ、周辺事情をはじめ、本人の資質も考慮して、あえて一括する形で指導する場合もあるのかもしれませんけど。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
追記: 2024/04/16 21:12
〜訂正内容〜
本文を加筆・訂正しました。