おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

339_法話50-25

25. 自分の思うがままになるものはない

私には子供がいる、
私には財産がある、
と愚か者は悩み苦しむ。
自分でさえ自分のものでないのに、
何が子供か、
何が財産か。

(六二) (第5章 愚か者 より)

ちょっと語気が強い表現ですね、最後の 2 行は。

訳のせいなのかな。

一体、何を機嫌を悪くして怒ってるんだろう? と訝しく感じてしまいます。

何が子供か、何が財産か、のところです。

率直な感想としては、です。

なぜならば。

今まで見てきた中で、以下の2つの経文で、怒りはダメだと言っているからですよ。

7. 怒ろうとするとおばあちゃんの顔が浮かぶ ( 311_法話50-7 - おぶなより )

粗暴な言葉を言うな。
言われた人々は、あなたにそのまま言い返すだろう。
怒りを含んだ言葉は苦痛である。
仕返しがあなたの身に至るだろう。
(一三三) (第10章 暴力 より)

8. 欲と怒りで心身が消耗する ( 312_法話50-8 - おぶなより )

修行僧達よ、
ジャスミンのツルが萎(しお)れた花びらを捨て落とすように、
貪(むさぼ)りと怒りを捨て落とそう。
(三七七) (第25章 出家修行者(比丘) より)

こうして、怒りがダメだと言っているのに、何で怒り気味の口調なんですか?

そう言われても仕方がない書き方だと思うんですけど。

この経文(六二)がおさめられているのが、第5章 愚か者 (60~75) の中だから?

あれらの場合には、叱責が必要だから?

しかし、この中の他の経文を一通り見ましたけど、こうした語調のものはなかったですよ。

わからないですね。

私の独断と偏見なんですかね?

とにかく。

第5章 愚か者 収録の他の経文と比べても、明らかに語調がキツいので・・・。

もっと穏やかに諭(さと)すというか、素直に感じる別の訳があるので、それをご参考までに引いておきます。

愚か者は、
自分の子供、
自分の財産のことを思って、
悩み苦しむ。
そもそも、
自分自身が自分のものではないのに
子供や財産が、
どうして自分のものだろうか。

(六二) (第五章 愚か者 より)

前置きが長くなりました。

まず、自分(自身)が自分のものでないとは、どういうことか。

五感を司(つかさど)る、目だって、耳だって、鼻だって、口(舌)だって、皮膚だって、全部自分のもの。

もちろん、身体全体も。

人様のものではない。

自らの身体に元から具(そな)わっているんだから。

ということは。

あの言い回しは、自分の身体には、自分の思い通りにはできないことがたくさんあることを指している、となりますね。(*)

心(以下、想いとする)も然り、身体(肉体)も然り。

想いは、過去世からの潜在意識などの転回から押し出されたものが、次々にわいてくるために、思うに任せない。

怒りたくなくても怒ってしまい、悩みたくなくても悩んでしまう。

特に無意識に出てくるものは、ほとんどこれなんでしょうね。

思い通りに制御したくても、なかなか難しい。

まず、できない。

行いもそう。

想いと行いはつながっているから。

悟りを得ることができなければ、これらをきちんと制御することは難しい。

身体にしてもそう。

肉体人間の身体(肉体)は、成長したくなくても成長し、老衰したくなくても老衰する。

抗(あらが)うのは難しい。

何回も書いてきたけれど、肉体はそれ自体で生きているのではありません。

神様のお命を分け与えられているからこそ、有機的な生命体として、生きていくことができている。

つまり、生かされている。

自分は神様の命を分け与えられて生きているけれど、この肉体、身体以外の神様のあらわした、ありとあらゆるものを、自分の思う通りにしようと思っても、そうはいかない。

思い通りにできないことがたくさんある。

物は、十分な経済力がないと自らの所有とするのは困難です。

しかも、晴れて念願の物を手に入れても、絶対ではない。

物=財産は時間の長短を問わず必ず老朽化して、いずれは朽ち果てて、やがて消失してゆく。

その物を所有する肉体人間の寿命も残念ながら有限です。

ましてや、別の肉体に分かれた自分の子供を自由に操ろう、思うがままにしようとするのは、言わずもがな。

つまり。

神様の命、み心以外は、万物流転して、この世に永遠にとどまることがない、ということ。

こうしたことを受け止め切れずに、あらゆることに執着を抱くと、どうしても苦しむことになる。

だから、認識を改めて、執着をおやめなさい、ということなんでしょうね。

何が子供か、何が財産か、という、あの怒りまじりの雰囲気を感じる強い語調は、お釈迦さんの在世当時の昔から、財産や子供に執着して、右往左往する人がかなり多かったことを、暗示しているのかもしれませんね。

霊性的に言えば、上記のようになりますが、お釈迦さんの時代ならば、やはり、涅槃(ねはん)の境地になる、つまり、悟りを得ないと、こうした執着はなかなかおさめるのが難しいでしょうね。

できるだけ執着しない、あらゆるものに対して、とらわれないように心がけていくしかないのでしょうね。

やはり、現代的には、(過去世からの潜在意識を含めて)想いがかかわってくる以上は、霊性を開発して、想いを浄めることが望ましい、と思います。

~~~~~

(*)話が長くなるので、存在自体の是非をめぐる、縁起については踏み込みません。

割愛します。

S さんの本でも、そこまで深く説明した話にはなっていませんでした。

S さんの本では、自分の体は自由にならないとして、疲れていれば眠くなる、お腹も空くし、トイレにも行きたくなることを例をあげて、説明をしています。

従って、縁起にまでは話が及んでいません。

なので、私もこれに倣(なら)って省略します。

ご了承願います。

経文が縁起にまで及んだ話をしていると解釈した場合については、もしも、機会があれば書くかもしれません(お約束はできませんが・・・)。

~~~~~

・訝しい~いぶかしい~疑わしい。怪しい。不審だ。
(用例)訝しい態度をとる。

・然り~しかり~その通りである。そうである。

・語気~ごき~言葉つきや語勢。語調。

・語勢~ごせい~話す時の言葉の勢いや調子。語気。

・語調~ごちょう~言葉の調子。しゃべり方の調子。語気。語勢。
(用例)語調を荒らげる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

追記: 2024/04/27 15:10
〜訂正内容〜

本文を加筆・訂正しました。