おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

333_法話50-22

22. 自分が自分にたいしてひどいことをする

敵同士、憎しみ合う同士が、
とろうとする態度よりも恐ろしいことを、
邪(よこしま)に育った心は、
自分に対して行うのだ。

(四二) (第3章 心 より)

S さんは、さらに以下の経文を加えて、色々と説明していますが、どうもピンとこないんですよね。

浅はかな愚かな者たちは、
自分自身に対して敵のように振る舞う。
悪い行いをして、
苦難の結果を得る。

(六六) (第5章 愚か者 より)

S さんによると、心が汚れていると、自分自身に対してもひどいことをすると言う。

憎む敵に対するよりも、もっとひどいことをする、と。

そして、その訳は、一歩間違えば、自分自身に対してもこの上ない敵に変身するからだ、と。

色々と説明されてはいますが、やはり、どうもピンときません。

以下、また私の独断と偏見による内容になってしまいますが、ご容赦願います。

まず、これら 2 つの経文を見て素直に感じるのは、対人ではなくて、自分自身に対する邪心(以下、便宜上、業想念とする)ことが、なぜに、より恐ろしい害をもたらすものになるのか、ですよね。

一見すると、人同士が対立して、はっきりと敵同士として争う方が、恐ろしいことのように思えるからです。

それをなぜ、あえて自らの業想念の方が恐ろしい、としているのか?

とりあえずですが、私は以下のように考えます。

敵対する対人への業想念は、理性を完全に失い、よほどのことでない限りは、歯止めがきく。

というのも、相手の反発・反撃があるからです。

自分と敵対する相手が、明らかな比べようもない絶対的な力量差があるように非力であり、一切の反撃や復讐の恐れがない場合ならば、相手の反発・反撃の恐れはないでしょう。

しかし、よほどのことがない限り、相手を殲滅させるような、残虐非道な徹底的なやり方はできないと考えられます。

こうした、絶対差がない場合には、何らかの反発・反撃や、禍根を残したことからの将来の復讐も、頭の片隅にあるのが普通だと考えられます。

つまり、相手方から反撃で与えられる何らかの危害を避ける、回避する、自己の保身の気持ちが働くと思われるのです。

だから、歯止めがある、と。

今までも、何回も書いてきましたが、業想念は、神様のみ心に合わない、外れた、真・善・美と愛に悖る肉体人間の想いと行いです。

これは、人類のすべてが、神様の分けられたお命を頂いて生きている以上、対人でも、自分に対してでも、変わりなく、輪廻転生を通して償う想いと行いです。

で。

業想念は、対人ならば上述のように、それなりの歯止めがきくことが考えられます。

しかし、自分自身に対する業想念(へりくだり過ぎの卑下慢など)や自分自身で抱く、直接行動にあらわさない分の想いだけの業想念は、歯止めがききません。

憎むならば、憎むだけ、怒るならば怒るだけ、想いとしてそのまま生じてしまいます。

なので、歯止めがきかない分の想いは、輪廻転生を通しての償いも増え、大変なことになってしまう。

従って、対人での想いを整える、浄めることも大切ですが、自らに関してはもっと大切で、より注意をして気を引き締めて、想いを整え、浄めなければならない、という結論になります。

こうした、意味合いがあって、上記の 2 つの経文のような内容が書かれていると考えます。

一言で言うなら、自らに対する想いの自制心と他人様に対する想いの自制心とでは、ストッパーのかかり具合が違うということです。

自らに対する想いの自制心の方が、何の障害物(他人様からの反発・反撃による自己被害の憂慮)もない分、かけにくい。

想いの動きは一瞬だから、おそらく、このストッパーをかける間もなく、わき上がることが多い、あるいは、ストッパーさえも弾き飛ばしてしまう。

他人様に対する想いの自制心は、他人様からの被害を避けたい自己保身の想いも、やはり速いので、何とか相殺作用して、ストッパーの役を多少なりとも果たせるのではないか、とあくまでも暫定的ですが、考えた次第です。

あと、これは蛇足ですが。

これは、経文も、 S さんも、想定していないのかもしれませんけど。

自らにまつわる業想念は、四六時中生じている状態に近い。

なぜならば、悟りを得られない一般的な私達は、常に、頭の中を様々な想いが駆け巡っているからです。

当然に、真・善・美と愛に悖らない良い想いもあっても、その逆の悪い想いもおそらくそれにも増して多くあります。

これは 1 日のうち、何百回(もしくは何千回かそれ以上)となく生じるのが普通でしょう。

しかし、対人での悪い想いの業想念は、対立が生じた時、いさかいが生じた時にかぎられるので、絶対的な総量としては、自らにまつわる業想念よりは、明らかに少ない。

それも圧倒的に(人間は、四六時中、いさかいや対立ばかりしている状態は常ではないから)。

そうした意味合いでも、対人での悪い想いの業想念よりも、自らにまつわる業想念の方が、より注意すべき対象であるし、浄めるべき対象でもあると言える。

つまり、後者(自らにまつわる業想念)の方が、前者(対人に抱く業想念)よりも、消滅させるべき業想念として、はるかに重要度が高いことになるんです。

もしかしたら、こうした意味合いも、含まれているのかもしれません。

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①追記: 2021/04/20 21:35
②追記: 2021/04/29 02:28
③追記: 2021/04/29 02:30
④追記: 2024/04/27 13:13
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。