おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

562_仏言葉ー094 ー 悪循環を断つ

第 6 章 心が晴れるためには

94.業は消費される

世間には種々なる苦しみがあるが、
それらは生存の素因にもとづいて生起する。
実に愚者は知らないで生存の素因をつくり、
繰り返し苦しみを受ける。
それ故に、知り明らめて、
苦しみの生ずる原因を観察し、
再生の素因をつくるな。

(スッタニパータ)

中村さんの注釈では、素因とは、未来の輪廻の生存を形成するもの。業または汚れある業の意味とされる。

佐々木さんは、業を生存の原動力としている。これは善業悪業の将来の結果をもたらすエネルギーだそうだ。

ちょっと、これらの言い回しは難しくてわかりにくいので、私流の言い方に変えて話をすすめる。

いつも書いていることになってしまうが、ご了承頂きたい。

世間にある様々な苦しみには、どのようなものがあるだろうか。

簡単に言えば、肉体を持つことにより、固有に起こる、生老病死にまつわることが、まずはあげられる。

今一つが、病気、争い、貧乏、苦労の病争貧苦だ。

病気は、前者も部分的に重なる場合があるが、ほとんどは後者と見ていいだろう。

大前提としては。

肉体人間は、本来なら神様のうつし身だから、肉体人間としての寿命は限られるために生老病死の方は免れないものがあったとしても、病争貧苦とは本来なら無縁のはずだ。

真善美に悖らない、完成円満の神体が元だからだ。

本来なら、健康そのものだし、神体としての元々の命は無限だし、争いごとを起こしたり、貧しくなることもないはずなのだ。

しかし、肉体人間として、この世の物質世界で生きていく都合上、自己保存という肉体としての身を守る、本来の神体にはなかった本能を与えられたために、自らの肉体中心の自分中心で身勝手な、利己主義の行動をとるようになってしまった。

こうになってくると、どうしても自分だけが、周りの他人と比較して、何事も自分優位になるように、想いを抱き、行動して生きていくようになる。

本来、神体としてあったはずの、分かれた他の人達との深い自他一体感は、こうして次第に薄れていくことになり、自分のごく近しい者や愛する者だけに、自他一体感を強く抱く程度になってしまった。

目で見える肉体も分かれているし、元が同胞、一つであるということも忘れ果てて、他人と自分を別物として、生存競争を自分優位に運ぶために、相争うようにもなってしまった。

このような生活をしていると、神様のみ心に沿わない、真善美に沿わない、想いと行いを、結果としてすることになる。

自分さえよければいいと、自分本位に立ち回ること、中でも、他人を傷つけたり、・・・となってしまう。

しかし、こうした行いは、神様のおつくりになられたこの世も神様の世界の一部である以上は、本来ならあってはならないこと。

神様の命を本質としている肉体人間としても、本来ならあってはならない、想いと行いなのだ。

だから、こうした想いと行いを生じさせてしまったら、なかったものとして相殺する、時間をかけてでも、必ず、清算して消し去らなければならなくなる。

個人個人や神様をも含めて一体とする巨視的な視点でみれば、自らの想いと行いは、良いものにしろ、悪いものにしろ、自らに返ってくることになる。

神様の世界が本当の世界、実在の世界だとすると、この世(現界)もあの世(幽界)も、想いや行いが巡って、消え去っていく、仮の世界だ、ということになる。

まるでこの世は、物質世界としての地球さんを神様の世界をあらわすために開発していくための場であると同時に、
過去世から溜まっている、肉体人間の作り出した想いを時間をかけて清算するために、わざわざ設けられた仮の世界としての魂の修行場、
のようになっている。

このような肉体人間の想いと行いの中で、問題になるのは、当然に、辛くて苦しい、病争貧苦だ。

嬉しいこと、楽しいこと、美しいことの内で、神様のみ心から外れない良いことは、巡ってくる、返ってきても、良いことばかりだから、辛くもないし苦しくもない。

本来の神体の想いと行いに外れなければ問題は起きない。

問題は、神様のみ心に沿わない、真善美に沿わない、他人を損なうような、一般的に悪いとされる想いと行いである。

想いと行いと書いてきたが、行いの前には、必ず、想いがあるからだ。

言い方を変えると、
想いは、良きにつけ、悪しきにつけ、行いとなる、
つまり、(この世やあの世で)実現する、ということ。

想いは実現する。

想いを原因・因縁とすると、
行いは結果・因果で、
自ら発した想いは、行いとなり、
さらに、自らに返ってくる。

大まかに言って、行いが自分発で発信され、自らに返る場合と、
分かれた他の肉体人間に向けて発信されて自らに再び返る場合、
の二通りだ。

つまり、
自分自身だけで完結する場合、
と、
相手があって、自分と相手とで相対して完結する場合、
の二通りとなる。(*1)

ただし、今生内で、想いがそのまま結果となって返ってくるのは、それほど多くはなく、かなりのものが、世を経る、つまり、輪廻転生を通して巡って返ってくる。

だから、それなりの時間差がある。

おまけに輪廻転生を経ると、原因となる因縁の作られた過去世での自らの想いと行いの記憶は、原則としては消されてしまう。

つまり、原因である因縁と結果である因果の関係をたどる大事な手がかりが消されてしまう訳です。

だから、この世を見ると、本当に、不条理なことも多いし、不均衡も本当に多い。

あらわれている結果から、原因をたぐることができないために、
この世においては、
ただ、
不条理や不均衡、あるいは不幸などが様々に起きてきているようにか思えないから、
である。

とても、
今生内だけのでの原因と結果である因縁と因果が、
きちんと対応してあらわれたものとは思えない、
納得し難い出来事がこの世の中には多すぎる、
からです。

とはいえ、悪いものが返ったからといって、
それを収めずに、反発する形で、
不平や不満や怒りをぶちまけてしまうと、
次の世以降、つまり、来世以降にまた、
その不平や不満や怒りの悪いものが返ってきて、
悪循環になってしまう。

上記経文の
「実に愚者は知らないで生存の素因をつくり」
というのは、
こうした仕組みがわからないで、
この世で悪いことが起きた場合に、また怒りをぶつけるなどの悪いものを返してしまうことにより、
せっかく、
悪いものが清算されようと、消えようとするためにこの世にあらわれてきていたのにもかかわらず、
さらに悪いものを上乗せして返ってくるような可能性のある行いをしてしまう、
ということになる。

つまり、
「苦しみが生存の素因になる」
というのは、
私流に翻訳させてもらえば、
自らある世(輪廻転生の中の一つの人生)に悪い想いと行いを生じさせてしまったら、
それはその想いと行いをなした世の次の世以降に、
必ず、
その償いとしての、
(主として)苦しみが、
生じることが決まるのであり、
この償いである苦しみによって、
元となる悪い想いと行いを
消し去る
清算するまで、
輪廻転生は繰り返される、
輪廻転生は終わらない、
ということになってしまう。

言い換えると、
魂(肉体人間の場合には、霊魂魄)についた業想念という汚れをぬぐい去るまでは、
輪廻転生の繰り返しを余儀なくされるのが、
神様の分け命を、
本体とする、
本質とする、
肉体人間の定め、
ということ。

肉体人間が、
あくまでも、
神様の分け命を本質としている限り、
いわゆる、
悪い想いと行いの業想念を生じさせてしまったら、
これは消し去られる定めがある、
やりっ放しで逃げ切ること、
すなわち、
ヤリ逃げ、
は許されない、
厳しい仕組みになっている、
と考えられる訳です。

神様の命を本体とする、本質とするというのは、
ここまで厳しく、
そして、
気高く生きなければならない、
ということを身をもって
イヤというほどに思い知らされるのが、
輪廻転生の仕組みとも言える。

だから、
何度も何度も、
繰り返して、
この世に生まれ変わって、
霊魂魂の汚れ落としをさせられるのは、
つまり、
生まれ変わりを余儀なくされるのは、
まるで厳しい修行のようだ、
と感じられなくもない。

このように考えてくると、
お釈迦さんのように、
まだ悟りを開けないお弟子さん達に、
修行として、
厳しい生活態度や心構えを課していたことの意味も、
十分に理解できるのではないだろうか。

悟りを開く、
つまり、
過去世からの業想念をすべて浄め去って、肉体を持ちながらも神様(仏様)の本質をあらわすことは、
もう今生で起きることの何事にも執着することもなければ、煩わされることもない。

安穏、安寧の境地である涅槃に至り、輪廻転生は卒業となる。

ということてはないですかね。

その厳しい修行の一環としての今生での様々に起きてくる苦しみを、
ああ、何てありがたいことか、(このような私(わたくし)達でも仏様(神様)のご慈悲で救って下さる)のように謙虚に感じることのできた人達が、
私のように至らない(=まだ霊魂魄に汚れのついている)自分を救いとって下さるための仏様(神様)のお計らいだ、と素直に感謝していた人達が、
古(いにしえ)の妙好人と呼ばれた人達です。

今生(今回の人生)中は、
逃げ切れるだろう、
どうせ悪事の報いなんか来っこないさ、
それ見ろ、
現に何も来やしねえじゃねえか、
と肉体人間の寿命が尽きるまで(この世を去るまで)思っていても、
(原則として)今生では、
その報いが来ないだけで、
輪廻転生を通した、
以降のいずれかの世には、
「そうした報いが必ず来ること」
を知らないだけだ、
ということ。

だからこそ、
上記経文では、
そうした人を、
「愚者」
という、
非常に厳しい言葉であらわしている(酷評?)。

だから、上記の仕組みの概要がわからず、新たに上乗せして業想念を積み重ねてしまったら、悪い想いと行いを消し去るための輪廻転生は終わらない。

どころか、対処の仕方によっては、累積債務のようになってしまう可能性まであることになる。

こうした過程を、上記経文では、
「繰り返し苦しみを受ける」
とあらわしている、
と解釈できる。

従って、上記経文の
「再生の素因をつくるな」
というのは、
この世で起きてきた、
過去世の因縁を原因とする、
悪い因果となる結果としての出来事を、

怒りなどを返さずに何とか収めるか(*2)、

世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行で、
浄めて未然に実現化を防げるものならば、防いで頂く

ことになる。

そうした二通りの、いずれかのやり方で、悪い想いと行いとその行いの巡ってくる返り、という、悪い循環過程を断ち切ること。

それが、上記経文の、
「再生の素因をつく」らないための処方箋になる。

あくまでも、個人的な見方にはなりますが、以上が上記経文の解釈になると考えます。

~~~~~

(*1)自分自身も、
分かれている肉体人間としての相手も、
親様としての神様も、
すべては、神様として一つ、としてとらえれば、
自分も相手も親様も全部一体なので、
誰が何をしても、
全部、自分のしたことは自分に返る、
ということになる。

これが、いつも書いている巨視的(マクロ的)なとらえ方。

実をいうと、自分は(も?)数年前までは、

このやったらやりかえされることの因果応報(神様のお命を分けられた神様の子供同士の関係)と、

自分のしたことが自分に返るという因果応報(神様のお命を分けられた神様の子供としての自分の、原則として輪廻転生という時間差を通した関係)を、

つまり、

対人的な因果応報の仕組みと、

自らをも含む対内的な因果応報の仕組みを、

きちんと、

すべては、神様の子供としての分かれたお命の間で、

肉体をまとって輪廻転生を通して、つくりあげてしまった関係、

という、

すべてを神様のお命としてとらえて、

その下(もと)で生じた、

因縁因果の関係、

因果応報の関係という、

全体としてのスッキリとした把握ができずに、

因縁因果の法則と因果応報の法則が、別々の原則なのか、同一なのか、何となくかかわりがあるのか、

と、

混同するというか、その理解が何となくモヤモヤとしていた。

ところが、
これは同じ因果応報の法則を、

微視的(ミクロ的)(または部分的)に見るか、

巨視的(マクロ的)に見るか、
の違いだけで、

すべては神様から分かれてあらわされたもの、本質は神様として一つ、神様全体としての大きな視点からすると、同じことを言っていることに気がついた。

まあ、こうした仏教関係のブログ(私はこれでもその端くれのつもり。まだ初期仏教しか触れていないけど)を読んで頂ける方は、おそらく、大乗仏教が大好きで、霊性にもある程度詳しく、頭がいいでしょうから、釈迦に説法かもしれませんが、万が一、まだ把握しておられない方がいらしたら、という可能性のために、ご参考までにと思い、何度も書いてきた次第です。

(*2)いくら過去世の記憶が消されていて、理由がわからないとはいえ、これを原因とするこの世で起きてくる悪いことを受け入れる(収める)のは、容易ではない。

仮に、今回書いたような輪廻転生を通した因果応報の仕組みを理解して、納得したとしても、現実にそうした目に遭うとやはり、感情想念を乱さない、不穏な気持ちを抱かないのは難しいと思う。

そうしたことも踏まえると、やはり、普段から想いが乱れ難いこと、感情想念に振り回されにくい下地をつくるためにも、霊性の開発が望ましい。

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①追記: 2021/09/30 18:17
②追記: 2021/10/02 02:08
③追記: 2021/10/02 05:00
④追記: 2021/10/02 05:12
⑤追記: 2021/10/02 05:20
⑥追記: 2021/10/02 07:36
⑦追記: 2021/10/03 20:25
⑧追記: 2021/10/03 20:32
⑨追記: 2021/10/04 08:10
⑩追記: 2021/10/06 08:13
⑪追記: 2021/10/04 08:22

〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。