おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

542_仏言葉ー075 ー 仏法僧と幸せ

第 5 章 やりたいことが見つからない

75.すべてのものに礼拝

われら、
ここに集まった諸々の生き物は、
地上のものでも、
空中のものでも、
神々と人間とのつかえる
このように完成した
目覚めた人ブッダを礼拝しよう。
幸せであれ。

(スッタニパータ)

佐々木さんによると、おそらく、このつかえるという部分が修行僧と訳されている。

そうして、仏教が、仏法僧、すなわち、仏(ブッダ。お釈迦さんのこと)、法(仏教の教え)、僧(出家修行者)があわさったものだ、としている。

その内容は、神様を含めたすべての生き物に対して、ブッダを礼拝し、教えを礼拝し、修行者達の集まりを礼拝するように言った経文だとしている。

というのも、これだけが私達を真の幸福に導き、救いの道を与えるからだ、と。

そうして、みんなが幸せであれ、という経文としている。

もちろん、そうなんでしょうけど、何だか、随分、しょってる気がしないでもないような・・・。

仏教以外の人から反感買わないかなあ。

大丈夫かしら。

佐々木さんは、すべてのものに礼拝、と題をつけている。

しかも、あくまでも、仏教だけの話だとして(仏教哲学の学者さんなんだから、当たり前か・・・)。

しかし。

もしも、自然も人間も植物も動物も、目に見える世界も、目に見えない世界も、ありとあらゆる世界は、神様のあらわしたものであるとすると・・・。

すべてを心から拝み、感謝できるようになることは、ひいては、万物の創造者、神様を礼拝して、感謝していることになる。

その中でも鍵を握る中心的な存在は、この世においては、間違いなく肉体人間です。

こうして考えてくると、仏教もいいんだろうけど、世界平和の祈りの方が、肉体人間すべての調和を、きわめて簡潔にわかりやすく願っているので、仏法僧の仏教よりも、間口も広く、しかも、わかりやすくて、広い教えだと思います。

この経文については、中村さんのところで、以前に扱ったことがあるので、以下にそれを引用します(改変あり)。

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199_原仏12ー12

198_原仏12ー11 の続きです。

中村さんは、慈悲の精神として、以下のものを挙げています。

他の識者の非難を受けるような
下劣な行いを決してしてはならない。
一切の生きとし生けるものは、
幸福であれ、
安穏(あんのん)であれ、
安楽であれ。

いかなる生きもの生類であっても、
おびえているものでも強剛なものでも、

ことごとく長いものでも中くらいのものでも短いものでも、
微細なものでも粗大なものでも、
目に見えるものでも、見えないものでも、
遠くに住むものでも、近くにすべきものでも、
すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、
一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。

何びとも他人を欺(あざむ)いてはならない。
たとえどこにあっても他人を軽んじてはならない。
悩まそうとして怒りの懐(おも)い抱いて、
互いに他人に苦痛を与えることを望んではいけない。

あたかも、
母が己(おの)が独(ひと)り子を命を賭けて護(まも)るように、
そのためには一切生きとし生けるものに対しても、
無量の慈しみのこころを起こすべし。

(一四五ー一四九)

また全世界に対して
無量の慈しみのこころを起こすべし。
上に下に、また横に。
障害なく怨(うら)みなく
敵意なき慈しみを行うべし。

立ちつつも歩みつつも
臥(ふ)しつつも、
眠らないでいる限りは、
この慈しみのこころづかいを
しっかり持(たも)て。
この世ではこの状態を崇高な境地とよぶ。

(一五〇ー一五一)

以上に対して、中村さんの書かれているのは以下の二文だけです。

母の独り子に対する気持ち、それはほんとうに純粋なものです。
そういう気持ちを願わくはそこから出発して、あらゆる人々に、あらゆる生きものに及ぼしたいものだ、というのです。

ただなあ。

現代は、児童虐待や殺傷さえも起こる世の中だからなあ。もちろん、口べらしなど、古代から、あったのかもしれないが。

因縁だから仕方ないのかもしれないが、あまりにも、今ある、身の回りのあらゆることのありがたさ、命のありがたさ、などがわからないで身勝手に暴走してしまうと、それを身にしみてわからせるような魂の学習がいずれ控えることになるような気もしないでもないような・・・。

次です。

中村さんは、すべてのものの幸せ、と題して(小見出しをつけて)、以下のものを挙げています。

上記のすべてのものが幸せであれ、愛の心を起こしなさい、といったことを指していると思われます。

中村さんは、こうした理想が、同じスッタニパータの第二章の中で、宝(たから)と呼ばれる経典の中に繰り返し述べられている、として、以下を引用されています。

われら、
ここに集まった諸々の生きものは、
地上のものでも、
空中のものでも、
神々と人間とのつかえる
このように完成した
〈目ざめた人〉(ブッダ)を礼拝しよう。
幸せであれ。

われらここに集まった諸々の生きものは、
地上のものでも、
空中のものでも、
神々と人間とのつかえるこのように完成した
〈教え〉を礼拝しよう。
幸せであれ。

われらここに集まった諸々の生きものは、
地上のものでも、
空中のものでも、
神々と人間とのつかえるこのように完成した
〈つどい〉を礼拝しよう。
幸せであれ。

(二三六ー二三八)

中村さんは、ここに仏・法・僧の三宝に分けて、それぞれを礼拝し、人間をはじめ、生きとし生けるものが、幸せであれ、と願っているとしています。

そして、さらに、中村さんは、人間の幸せを願うだけでなく、生きとし生けるもの、目に見えない魂、すべてのものの幸せを願う思想は、仏教以前のヴェーダの宗教にもかすかにあったそうですが、それが仏教でこのように大きく取り上げられて、称揚されている、としています。

その精神は、例えば、現代のお施餓鬼に生きているとされます。

餓鬼さんは、生前に悪行を行い地獄に落ちた魂や生前食べ物を粗末にしたり、俗世で供養してもらえなかったりして無縁仏となってしまった霊のことで、地獄に落ちて鬼となってしまったもののことを言います。

餓鬼の世界のことは「餓鬼道(がきどう)」と言い、六道の一つとなります。

餓鬼は地獄で、常に飲食をすることができずに、飢えと渇きにもがき苦しんでいるため、食物や飲み物をお供え物として捧げ、法要を行うのです。

生きていて目に見える一切の動植物をはじめとする生き物だけではなくて、(普通は)目に見えない一切のものにまで、これを及ぼす、ということでしょうね。

一言で言ってしまうと、神様のおつくりになったものの、すべてのものに対する讃歌ですね、成仏できずに迷っているものまでをも含めて。

これらを読み替えると、すべて神様のみ心によってつくられ、生かされているものには、神様の命が宿る。

目に見える、見えないは問わず、一切の神様のおつくりになったものに幸せがあれ。

そのためには、当然にすべてのものが、調和して、称え合い、尊重し合い、愛し合い、慈しみ合わなければなりませんね。

当時、これに最も近かったのが、差別や排除や争いや不調和を旨としなかったところの、釈迦の開いた仏教だったのでしょう。

五井先生(昭和の宗教家五井昌久さん)の提唱した、世界平和の祈りはまさにこれにあたるらしいです。

世界平和の祈りは、神界、霊界、幽界、現界、そして、宇宙に鳴り響く意味のある祈りだ、と読んだことがあるので(五井先生のどの本かは忘れてしまいましたが)。

~~~~~

・識者~しきしゃ~深い知識や見識のある人。有識者

・下劣~げれつ~ものの考え方や行いが下品でいやしいさま。

・安穏~あんのん~変わったこともなく穏やかなこと。平穏。

・安楽~あんらく~心身が安らかなこと。また、そのさま。

・生類~しょうるい~生きもの。生物。動物。

・微細~びさい~きわめて細かいさま。ごくわずかなさま。

・粗大~そだい~あらくて大まかなこと。また、そのさま。

・強豪・強剛~きょうごう~きわだって強く手ごわいこと。また、その強い人やチーム。つわもの。

・無量~むりょう~はかり知れないほど多いこと。
(用例)感無量。

・崇高~すうこう~気高(けだか)くて尊いこと。また、そのさま。
(用例)崇高な理念。

・礼拝~らいはい~仏を敬い拝むこと。
(参考)らいは礼の呉音で、主として仏教で用いる。

・礼拝~れいはい~神仏をおがむこと。特に、キリスト教で、神を崇敬し、その恵みに感謝すること。
(参考)仏教では、らいはいと言う。

呉音~ごおん~漢字音の一つ。古代中国の南方系の漢字音が日本に伝わったもの。行をぎょう(ぎゃう)、金をこん、生をしょう(しゃう)と発音する類(たぐい)。仏教語に多く残る。

三宝~さんぼう~仏教語~仏教徒が尊敬すべき三つの宝。仏・法・僧のこと。

・称揚~しょうよう~ほめたたえること。ほめあげること。

・法要~ほうよう~仏教語~追善供養などのために行う、仏教の儀式。法事。法会(ほうえ)。仏事。
(用例)三回忌法要をいとなむ。

・旨~むね~述べたことの主な内容。また、その狙いや意味。

・宗~むね~主とすること。重んじること。(参考)旨とも書く。

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①追記: 2021/09/22 22:03
②追記: 2022/09/25 10:23
〜訂正内容〜

上記複数回にわたり、本文を加筆・訂正しました。