おぶなより

世界平和の祈りに寄せて

171_お断り2

内容の両建てにする書き方についてです。

一つは、宗教色、善意(悪く言うと建前)一辺倒押しの、綺麗事のものの見方。

今一つは、韓非(かんぴ)色、悪意一辺倒押しというか、肉体人間としての自己を中心とした、冷酷なまでの利害得失計算を徹底させるものの見方。

読まれてお気づきになったと思いますが、これからも、多分、この見方を両輪として、やっていくことになると思います。

これまでで言うと、

164_原仏9ー5 のサンユッタ・ニカーヤにある第七篇第二章・第四節の、子のかたちをした悪鬼、についての話と、これに関しての雑記 165_原仏9ー6 で書いた内容、

そして、

169_原仏10ー1 の(注1)(注2)で書いた、マガダ国王とその使者に対する釈迦の対処について書いた内容、

の二つに出しています。

こんな文章を書いている私は、元々は素直だったんです。

人の悪意を疑うことをしなかった。

トロかったし、友人達の目には、単純でバカな人間だと映っていたかもしれない。

一緒に暮らしていた信心深い祖母の影響もあったかもしれないけど。

しかし、だんだん長じるに従って、もう、学生時代からでも、人様の本音と建前のあまりの落差に驚愕させられることを繰り返してきて、否応なしに、人間の本音と建前の使い分けを意識せざるを得なくなりました。(注1)

この世は修行の場です、おそらく。

みんな、あまたの過去世からたまっている、真善美に悖る、想念と行為の清算をさせられるために、この世に来ている。

だから、この世は、残念なことに、嬉(うれ)しいことだらけ、楽しいことだらけには、まずはならない。

つらいこと、苦しいこと、思うにまかせないことが、たくさんある人が一般的なのではないでしょうか。

これらが少ない人は、よほど過去世で徳を積んでいた人ぐらいじゃないですか。

ご褒美みたいな人生の人もまれにはいるかもしれない。

しかし、大半の人は何かしらの苦労を余儀なくされるようになっているような気がします。

だから、物事を悪い捉え方をして、批判的になってばかりいると、ますます、真善美に悖る業想念をつのらせ、輪廻転生にその悪影響を反映させる可能性を高めて、場合によっては悪循環に陥る可能性まででてきてしまうことにもなります。

こうした娑婆です。(注2)

悪いところを探すのは至極簡単です。

しかし、だからといって、何でもかんでも良く見ようとか、ポジティブシンキングをおすすめる気はありません。(注3)

良いところを見いだすことは、もちろん必要です。

感謝の元になりますから。

ただ、良く見れないことを無理矢理に良く見る、あるいは、無理に積極的に考えるようにすると、これは自滅につながる可能性が出てきます。

現実を無理な擬態で覆い隠しているような形になり、これまた、真善美に悖る業想念を生じさせる結果になるからです。

なので、根本の世界、大元の世界は真善美に悖らない神様の世界から来ているけれど、それにはまだ遠い世界だと、一旦あきらめて、少しずつ、大元の世界に近づけていくように、地道にすすんでいくしかないように思うんです。

なので、何回も世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行をお願いしてきたところがあります。

乱れたこの世のありように、批判したり、バッサリ切り捨ててなげやりになって、罵詈雑言を投げつけるのは容易(たやす)い。(注4)

しかし、それでは、悪い循環に向かうしかないように思えるんですよ。

裏読みをすると、批判をする、罵詈雑言を投げつける、その心の奥底には何があるのか。

私には、やはり、神様の世界、みんながお互いに愛し合い、尊重し合い、慈(いつく)しみ合う、そうした世界が本来あるべきだ、との思いがあるからこそ、こうなるように思えてならないんですよ。

深層意識にある、無意識にそう思っているからこそ、かけ離れた現実を見るのがつらい。

だから、批判に走ってしまう。

しかし、だいぶ前にも言いましたけど、これはいいやり方ではないんです。

そうして、それに気づいたら、祈り一念という行き方があるとおぼえていただきたいと願っています。

何だかだいぶ話がずれてしまいましたけど、とにかく、これからも、中村さんの本を上記のような見方(最上部に書いた両建てのことです)で読みかえしていくつもりです。

私の教養不足、文章力不足のため、何かと読みにくいことがあるかもしれません。

ですが、これでも精一杯、なるべく平易にわかりやすく、と努力はしていますので、至らない点は、ご承知おきのほどよろしくお願い致します。

仏教がお好きな方、また、他の宗教でも信心深い方は、善意一辺倒押しが大好きというか、そもそも、心根がきれいなために、疑うことを嫌悪する方がおられるかもしれません。(注5)

そうした方には、読みづらいかもしれませんが、その点もご了承願います。

~~~~~

(注1)驚愕~きょうがく~非常に驚くこと。

(注2)娑婆~しゃば~(梵語の音訳)現世。人間世界。俗世。

(注3)ポジティブ・シンキング~positive thinking 積極的な考え方をすること。プラス思考。

(注4)罵詈雑言~ばりぞうごん~口ぎたなくののしり、悪口を言うこと。また、その言葉。悪口雑言(あっこうぞうごん)。

(注5)心根~こころね~心の奥底。本性。性質。
(用例)心根のやさしい人。

嫌悪~けんお~憎きらうこと。ひどくきらうこと。

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追記: 2020/11/18 05:30 〜訂正内容〜全体にわたって、内容を加筆・訂正しました。

意味が通りにくいと思える箇所を、書き換えました。

170_原仏10ー2

前回の 169_原仏10ー1 で、この経典は、釈迦の死に直面した場面やその直近の経緯からでなく、違う話から始まっていると書きました。

実は、これは私の個人的な勝手な想像なのですが、釈迦の80才、寿命をまっとうした年齢ですね、その前なのは確かだ、とはわかるのですが、できれば時間差を知りたかったのです。

前回の内容からでは、数日なのか、数週間なのか、数ヶ月なのか、はたまた、数年前(数十年前??)なのか、わからないのです。

アーナンダを従えた、マガダ国王の遣いの大臣ヴァッサカーラとの会見でも、これをうかがわせる描写は出てきません。

例えば、釈迦が80才直前で、大臣から見て、どのような風貌に感じられたか、といった描写がまったくありません。

普通なら、ほんの少しでもありそうなはずなんですけどね。

何せ、お墨付きという、権威付けをもらうための大事な山場の場面ですから。

これまでの、様々な華美な経典描写から類推すると、それにふさわしい、何らかの描写がありそうに思うんですけどね。(注1)

まあ、私の独断と偏見ですが。

疑り深すぎるんですかね、へそ曲がりなもので。

私は、先入観なしにあれを読んだ時に、まだ、少なくとも、50代か60代のバリバリ?の釈迦が答えたように感じたからです。

前置きが長くなりました。

第三章 最後の旅 ー 「大パリニッバーナ経」

二 最後の旅路

です。

マガダ国王から遣わされた使者、ヴァッサカーラ大臣との会見で、強引で自分勝手な征服戦争をやめ、ヴァッジ族を自国繁栄のための模範とせよ、と暗に諭した釈迦は、そののち、鷲の峰を下りて、生まれ故郷のネパールの中部地方に向かいます。

齢(よわい)八十にして、わずかの弟子を連れて歩きで、故郷に旅立つ心境は、いかばかりか、と中村さんはお考えのようです。(注2)

文面からすると、生まれ故郷で生涯を閉じたい、という、釈迦の人間味のある選択なのではないか、とお考えのようです。

いくら歴訪した、その土地、その土地に執着を持たないように、遊歴と教化を旨とされる修行者でも、やはり、死を目前に控えて故郷に帰りたいという気持ちのことと思われます。

中村さんは、後の大乗経典で神格化され、巨大化しすぎた?ものではなく、歴史的人物としての釈迦の姿が、非常に生々しく、そして親しく、暖かい気持ちをもって迫ってくる、そのために、この経典に心惹かれる旨をお書きになっています。

徒歩である、といってもほとんどの現代人のように履き物を履(は)いていません。当時の修行者の常で、道端の虫もできる限り踏み潰して殺さないように裸足(はだし)だったようなのです。

しかも、何とその距離350kmです。鷲の峰を出発して、ナーランダー、パータリプトラ、ヴェーサーリーなどを経て、クシナーラーで終わるところ旅路での。

舗装の行き届いた道を、車で移動するだけでも大変そうな距離です。

まったく、想像もできません。想像を絶しています。(*)

しかも、釈迦は、その旅の合間合間に、機会あるたびに教えを説いたとされています。

王舎城を出発した(この記述からすると鷲の峰から一旦、王舎城に戻ったんですかね?それとも通過点なのか?ちょっとわかりません)釈迦が、最初に立ち寄ったのがナーランダーです。

長くなりましたので、今回は、ここで区切ります。

~~~~~

(注1)華美~かび~はなやかで美しいさま。また、派手でぜいたくなさま。
(用例)華美を極める。華美な服装。

(注2)齢~よわい~年齢。年。また、年配・年頃。
(用例)齢を重ねる。

~~~~~

(*)これは、私の勝手な判断で、故意に省いたことなのですが・・・。

あまりにも、宗教が遠いものに思えてしまうかもしれない、と思いましたので。

しかし、やはり中村さんが取り上げている以上、書いておくべきなのでしょうね。

350kmの話の直前に、こうあります。

経典によれば、釈尊は「眼を下に向けて気をつけている」と書かれていますが、こうした記述から路上の虫さえも踏み殺さないように裸足で旅を続けた様子が窺(うかが)われます。

つまり。

歩くだけでも、これだけの気遣いをするのが、修行者のあり方であった、わざわざ、虫たちのために下を向きながら歩く、と。

今では、考えられませんよね。

現代人は、下を向いて歩くこと自体が、危険なものになってしまっているからです。

往来はある、自転車はある、自動車はある、他に気をつけていないと、自分の身が危なくなるからです。

これとは、ちょっと違うかもしれませんが、五井先生(昭和の宗教家の五井昌久さん。世界平和の祈りの提唱者)の書かれていたことを、うろ覚えですが書いてみます。

自分勝手な想像の付け足しも、かなりまじるかもしれませんが、あらかじめご了承下さい。

私達肉体人間は、植物、動物をはじめとする、あらゆるものの犠牲の上に生きている。

当然、各種の資源もそうなります。

外を歩けば、虫を踏み潰して殺しているかもしれない(今回の話がこれですね)し、食べものに関しては、植物も動物もその生きていた命を頂く訳です。

肉体人間が生きていくために、栄養分となるものは同化してくれる、そうして生きていく訳です。

いわば、命を頂いた訳だから、感謝とともに頂かなければならない。

それを、こんなものはまずい、あんなものはいやだのように、贅沢三昧ばかりやっていると、あらゆることが悪いことになってしまう。

肉体人間、すなわち、人類が万物の霊長としての存在を許されているのは、その神様のみ心を地球世界、この肉体世界、現界にあらわすためにこそ、である。

従って、文明の進化などをも含めて、いろんなことをある程度犠牲にしながらやっていくのは仕方ない側面があるにしても、感謝とそのご恩返しとなる祈りを欠かさないようにしていくことは、必須である。

そこに、世界平和の祈りと守護霊さんと守護神さんへの感謝行があるから、これをやっていきましょう、と。

だいたい、こんな感じだったと思うのですが、もし間違っていたら、ごめんなさい。

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追記: 2020/11/19 23:10 〜訂正内容〜故意に省いた釈迦をはじめとする、古(いにしえ)の修行者の目線の話と五井先生の本の内容(自分の大まかな記憶なので、もしも間違っていたらごめんなさい)を追記しました。
また、土地土地の記述を書き換えました。

土地土地は、誤記ではなかったのですが、なんとなく見栄えが悪く気になって仕方なくなってきてしまったので、歴訪した、その土地、その土地、と書き換えさせて頂きました。すみません。

一部、意味の通りにくい箇所を書き換えました。釈迦がマガダ国王の使者を(ひいては結果としてマガダ国王を)諭した場面を自分なりにまとめ直した描写の箇所です。
また、全体にわたってわずかづつ表現をいくつか改めました。

169_原仏10ー1

これまで、 Ⅰ 釈尊の生涯 を、

序章 原始仏典へのいとぐち

第一章 誕生と求道ー「スッタニパータ」(1)

第二章 悪魔の誘惑ー「サンユッタ・ニカーヤ」(1)

と、見てきました。 これからは、

第三章 最後の旅ー 「大パリニッバーナ経」

に入ります。


一 旅立ちまで

まず、大パリニッバーナ、の意味です。

要は、パーリ語からすると、大いなる、偉大なるところの(釈迦の)死の経典、といった意味になります。

で。

この経典は、釈迦の死に直面した場面やその直近の経緯からではなく、まったく違った話から始まっています。

で、また、きわめて、おおざっぱになり、申し訳ありませんが、これは、釈迦がマガダ国の国王、アジャータサットゥ(阿闍世ーあじゃせ)が、ヴァッジ族を制覇するための権威付け、いわば、お墨付きを釈迦からもらいたくて、配下の大臣を釈迦の下(もと)に寄越して、釈迦にお伺いを立てる場面から始まるものになっています。

以下です。

マガダ国王アジャータサットゥ・・・は、マガダの大臣であるヴァッサカーラというバラモンに告げていった。

アジャータサットゥ(阿闍世)は、敵として比べる者がいない大王という個人名ではない称号です。バラモンは、祭祀を行う司祭僧ですが、時には王室の顧問や大臣もしていました。

「さあ、バラモンよ、尊師のいますところへ行け。そこへ行って、尊師の両足に頭をつけて礼拝せよ。そうしてわがことばとして、釈尊が健勝であられ、障りなく、軽快で気力があり、ご機嫌がよいかどうかを問え。そうして、このように言え、 ー 尊いお方様。マガダ国王アジャータサットゥはヴァッジ族を征服しようとしています」

ヴァッジ族は、当時非常に豊かで栄えていた北の方面の大都市の氏族のことです。

「かれはこのように申しました。 ー (このヴァッジ族はこのように繁栄し、このように勢力があるけれども、わたしは、かれらを征服しよう。ヴァッジ族を根絶しよう。ヴァッジ族を滅ぼそう。ヴァッジ族を無理にでも破滅に陥れよう) ー 」

「そうして尊師が断定されたとおりに、それをよくおぼえて、わたしに告げよ。けだし完全な人(如来)は虚言を語られないからである」

(以上、一・二)

で、これまた、おおざっぱですみませんが、概要はこうです。

釈迦は直接には問いには答えません。

ヴァッジ族を制服してよいのか否かに関しては、直接の返答を避けます。

その代わりに、ヴァッジ族の美点をいくつも取り上げて、こうした国こそ、繁栄するにふさわしい、素晴らしい国だ、と説き聞かせる訳です。

これは、現代風に考えると、真善美に悖る(反する)業想念を避ける形で説得した、と捉えることができます。

釈迦は、こう考えたかどうかわかりませんが、仮に推察すると。

どんなに議論を闘わせようと、仮に、論駁したところで、何も良いことはない。理屈の上で、いかなる正当さがあろうとも、敵対する者があれば、必ず自己の利害得失にもとづく正当化をはかるし、捲土重来を期することさえも、あり得るのがこの世だからだ。(注1)

しかも、闘いの業想念を抱けば、必ず争いの元になる。(注2)

理屈での正当さの判定も、お墨付きも、争いを巻き起こす以上、有害でしかない。戦争を起こし、後に世を平定して落ち着きを取り戻したかのように見えたとしても、それまでにどれほどの戦禍での犠牲と悲劇が巻き起こされるかは言わずもがな、だ。

だから、お墨付きは、しない、受けない、と。

その代わりに、この際だから、マガダ国の国としてのあり方や、そもそも、国とはこうあるべきだ、集団とはこうあるべきだ、人としてはこうあるべきだ、とのあり方を指し示した、ということではないですかね?

で、こうした経緯は以下のようになります。

まず、大臣のヴァッサカーラが、マガダ国王の遣いにふさわしく、心身と装飾を整え、マガダ国の首都の王舎城から出立します。

目指したのは、鷲の峰という山です。漢訳仏典で霊鷲山(りょうじゅせん)です。

乗物に乗って行き得る地点までは乗物で行き、そこで乗物から下りて、徒歩で尊き師の在(いま)すところに近づいた。

この鷲の峰付近の地形は現代までそのままのようです。

近づいてから尊師に挨拶のことば、喜びのことばを取り交わして、傍らに坐した。

(一・三)

そして、直接マガダ国王の問いに答えずに、傍らの弟子、アーナンダ(漢訳仏典では阿難尊者)に、語りかける形で話します。

それを、一緒にいたマガダ国王の遣いの大臣、ヴァッサカーラも、ともに聞く訳です。

アーナンダよ。ヴァッジ人が、しばしば会議を開き、会議には多くの人々が参集する間は、ヴァッジ人には繁栄が期待され、衰亡は無いであろう。(注3)

アーナンダよ。ヴァッジ人が、協同して集合し、協同して行動し、協同してヴァッジ族として為すべきことを為す間は、ヴァッジ人には繁栄が期待され、衰亡は無いであろう。

アーナンダよ。ヴァッジ人が、未来の世にも、未だ定められていないことを定めず、すでに定められたことを破らず、往昔に定められたヴァッジ人の旧来の法に従って行動する間は、ヴァッジ人には繁栄が期待され、衰亡は無いであろう。(注4)

アーナンダよ。ヴァッジ人が、ヴァッジ族のうちの古老を敬い、尊び、崇め、もてなし、そうして彼らの言を聴くべきものと思っている間は、ヴァッジ人には繁栄が期待され、衰亡は無いであろう。

アーナンダよ。ヴァッジ人が、良家の婦女・童女を暴力で連れ出し拘(とら)え留めることを為さない間は、ヴァッジ人には繁栄が期待され、衰亡は無いであろう。

アーナンダよ。ヴァッジ人が都市の内外のヴァッジ人のヴァッジ霊域を敬い、尊び、崇め、支持し、そうして以前に与えられ、以前に為されたる、法に適(かな)ったかれらの供物を廃することがない間は、ヴァッジ人には繁栄が期待され、衰亡は無いであろう。

これは、当時のインドでは、大樹の下に、神様をまつって、偉人の遺骨を納める習わしがあったので、このような精神的な拠り所となっている霊域を大事にしなさい、としています。

アーナンダよ。ヴァッジ人が真人たちに、正当の保護と防禦と支持とを与えてよく備え、未だ来らざる真人たちが、この領土に到来するであろうことを、また、すでに来た真人たちが、領土のうちに安からに住まうであろうことを願う間は、ヴァッジ人には繁栄が期待され、衰亡は無いであろう。

ここでの真人は、いわゆる、阿羅漢のことです。

で、釈迦は、こうした事実を列挙して、これに照らして、ヴァッジ族はどうであるか?と問う訳です。

そこで、アーナンダが、その通りでございます、と答えることで、マガダ国王への間接的な返答をしました。

これも、推定ですが、おそらく、こういうことでしょう。

ヴァッジ族はせっかく良い形で繁栄しているのだ。それでも、あえて戦いを仕掛けるなどという愚かな真似はするな。少なくとも、人のあり方、組織のあり方、国のあり方に見所があるのだから、ヴァッジ族はそのままにして、戦いはやめて、良い点を参考にして取り入れなさい、と。

**********

ここでの、私の概要把握は、かなり信憑性に不安を持つ方もおられるかもしれませんので、中村さんの見方を、多少の簡潔化をして記しておきます。

だいたい、7つほどの項目をあげ、これが守られ続ければ、ヴァッジ族は繁栄するので、決して攻め滅ぼすことはできないと暗に含めて説いたとされます。

すなわち、こういう立派な国だから、そこを滅ぼすのは無意味だから、おやめなさい、と言っていると。

つまり、(征服戦争をやるかやらないかの裁可は与えないで)いきなり判断を表明しないで、諄々(じゅんじゅん)と説ききかせて戦争を起こすのをやめさせたのが、釈尊の態度だとしています。

中村さんは、このことは要するに、お前の国もこうしなさい、そうすれば繁栄するぞ、と暗に諭(さと)したと受けとっていいと思うと書かれています。

**********

~~~~~

(注1)論駁~ろんばく~相手から加えられた意見や説の誤りを指摘して、言い返すこと。
(用例)論駁を加える。

捲土重来~けんどちょうらい~一度負けたり失敗したりした者が、再び力をもりかえしてくること。けんどじゅうらい。
(用例)捲土重来を期する。

こういったところにも、神様の分霊(仏教なら仏性になるのかな)に加えて、自己保存の本能や、動物的な本能が付与されていることを、釈迦はよく知っていたのではないですかね?

自分こそがすべて、今ある肉体人間こそがすべて、だからこれの五感にまつわる、あらゆる欲望の拡張を求めて止まない肉体人間の性(さが)を。

(注2)で、(注1)とも関連しますが、そうした肉体人間の想い、想念が、輪廻転生を通してどのような影響をもたらすかも、よくわかっていた。

特に、真善美に悖る(もとる。反するという意味)想念である業想念(ごうそうねん)のことを。

ここで、釈迦が頭ごなしにマガダ国からの使者に対して、理路整然にガツンとやってペチャンコにしたらどうなるか?

釈迦に対してあそこまでの敬意を抱き、丁重な手続きを踏んで、お伺いを立てた使者、従って、この使者の知らせを受けて、マガダ国の王は、どのような気持ちになるだろうか?ということです。

釈迦がとてつもなく偉く、如来様に匹敵(ひってき)するから、素直に受け入れて、ハイそうですか、お説ごもっともです。失礼致しました、となるか、っていう話です。

多分、そうはならないんじゃないですか?

マガダ国王は、おそらく面白くない。万が一、怒りでもしたら、大国です。大変なことになりかねない。

しかも、こうした経緯は、現世で何とか具現化せずに収めることができたとしても、残ったわだかまりや、マガダ国王の釈迦やヴァッジ族への不穏な想念が、輪廻転生に乗ってしまうと、また、いろいろとまずいことになる。来世以降に、禍根(かこん)を残す可能性が出てきてしまいます。

こうしたことまで、すべてひっくるめて、何とか穏便(おんびん)に済ませる方法はないか?と考えて、あのようにした可能性があるのではないですかね?

まあ、お釈迦さんは、ウルトラ優秀な人ですから、こうしたことは瞬時に理解して、実行に、つまり、アーナンダへの語りかけの形でのわからせ?に移したのでしょう。

また、釈迦のことです。マガダ国王の人柄や因縁も、よくよく踏まえ、見通した上で、あのようにした可能性があるのではないか、と。

素人的には、あの経緯を以上のように考えます。

(注3)参集~さんしゅう~大勢の人が一ヶ所に集まってくること。
(用例)講堂に参集のこと。

衰亡~すいぼう~おとろえほろびること。衰滅。←→興隆
(用例)国家の衰亡。

(注4)往昔~字引載っておらず。

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追記: 2020/11/16 05:11 〜訂正内容〜

以下の意味を追記します。

・けだし~思うに。まさしく。たしかに。
(用例)けだし名言である。
(用法)文語的な語で、確信をもって推定するときに使う。

・阿羅漢~あらかん~小乗仏教の修行者の最高の地位。すべての煩悩を断ち、悟りを開いた人。羅漢。

中村さんによると、当時の敬われるべき人、尊敬されるべき人の意味で、他の宗教をも含めて、本当に立派な修行者のことのようです。

元の言葉で、アラハント arahant、音写で、阿羅漢とのことです。

一番最初の表題、一 旅立ちまで を抜かしてしまったので訂正します。すみません。

また、最終部分に、中村さんの釈迦のマガダ国王への答えの意訳にできるだけ近いものを追記しました。

さらに、釈迦のマガダ国王に対処について、考えられる可能性を説明不足の分をも含めて追記しました。(注1)と(注2)の部分です。また、それに伴う既存の文章にも加筆・訂正をしました。

168_原仏9ー8

神々の存在の位置付け以外に、一つ引っかかているものがあるので、これについて触れます。

それから、次に進みます。

釈迦が、梵天の頼みを受けて、悟りを得た修行者、まあ、ブッダ仏陀)の目で世の中を、特に、世の人々を見渡して、教化を決意し?(哀れみによってと書かれているからこれかな)立ち上がり、梵天が挨拶して立ち去るくだりがあります。

以下です。

「耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。
(おのが)信仰を捨てよ。
梵天よ。人々を害するであろうかと思って、
わたくしは微妙な巧みな法を人々には説かなかったのだ。」

まず、前回書き忘れた(すみません)点も含めて、いくつか触れていこうと思います。

耳ある者とは、教化の可能性のある、利根の人などに代表されるような人々のことでしょうね。

まあ、聞きわけと分別のある人、といったところでしょうか。

ども、とは・・・。

こういっちゃなんですが、ずいぶんと上から目線ですね。

まあ、原語がどうなっているのか、翻訳の関係か知りませんが、もし万が一、釈迦を崇(あが)めたいばかりの勇み足なら、ちょっと頂けないのではありませんか?

なぜなら、釈迦は、遊女をはじめとする、いかなる人をも相手に、待機説法をした訳です。(注1)

現代風に言い換えれば、どんな境遇に置かれた人にも、肉体人間として、その神様の分霊(わけみたま)を頂く、本体とする人間として、言い換えれば、相手各自の神性を認めて、尊重して対処した、と考えられるからです。

ども、の用法には、相手を、多くは相手を見下す意味合いで使うことがありますからね。

上から見下す、これはすなわち、差別です。

こうした行為は、唯物論の典型的な悪癖がもたらすもの以外の何ものでもない。

こうした雰囲気を感じるから、私みたいなひねくれ者は、疑いの目で見てしまうところがあるんですよ。

まあ、確かに、当時にも、信仰には程遠い人々はいたでしょう。

しかし、差別や段付けは、最もしてはいけない、戒めなければならない事柄なのではないのですか?

私はそう思うんですけど。

で。

不死の門とありますが、これを仮に、永遠の生命、輪廻転生を通した、神様の分霊としての生き方、あり方を獲得する(近づくように精進していく)道だとすると、これは、現代の霊性の開発と同じですね。

私が、引っかかっているのは、わからないのは、ここで釈迦が、人々を害するであろうか、としているところなんです。

人々を害する、とはどういう意味なのか。

釈迦ほどの人です。自らや弟子達には、いかなる艱難辛苦があろうとも、教化に取り組む、いそしむでしょう。(注2)

教えても徒労に帰する点についても、含み置きをした上で教化を決意しているはずです。

教化側は、まずは大丈夫、ということですね。

実際に、釈迦はその生きざまを通して証明していますよね。

悟りを開いてからの、35才から亡くなる80才までの45年間の月日で。

もっとも、彼にとっては、証明だの何だのと、そんなことはどうでもよかったのでしょう。

ただ、人とともにありたい、自然とともにありたい、いってしまえば、神様のあらわしたすべてのものとともにありたい、そして、そのために少しでも役立つなら、身を捧げ尽くしたい、と。

問題は、被教化側となりますが、害するとなると、何を意味しているのでしょうか?

教化される、現代風に言い換えれば、霊性を開発されていくことが、程度の差こそあれ、ものすごい苦痛を伴う、という意味なのでしょうか?

まあ、いろいろ、考えられますが、一応、この本を終えたあとに、また、見返したいと思います。

考えが変わらないかもしれませんが、とりあえず、このようにさせて頂きます。

ご了承下さい。

お願い致します。

~~~~~

(注1)遊女~ゆうじょ~①中世、宴席で歌舞・音楽を演じたり、身を売ったりした女。遊び女。
②江戸時代、遊郭で身を売っていた女。女郎。

なお、身を売るとは、自分を求めてくる相手の男性に、なにがしかの対価と引き換えに、セックスをさせる、セックスされることを許す、という意味ですね。

現代風に、はっきり言い切ると、こうなるはずです。

(注2)艱難辛苦~かんなんしんく~困難にあって苦しみ悩むこと。

艱難~かんなん~艱も難もつらい・苦しいの意~困難にあい苦しみ悩むこと。つらいこと。難儀。

(用例)艱難汝を玉にす~かんなんなんじをたまにす~人は多くの困難や苦労を経験することによって、立派な人物になる。

167_諦感

この頃は、いつも、仏教のお堅い話ばかりになっているので、たまには違うことを書かせて頂きます。

諦感。ていかん。
①はっきりと本質を見極めること。
②俗世の欲望をあきらめて、超然とした態度でいること。
(用例)人生を諦感する。

超然。ちょうぜん。物事にこだわらないで、ゆうゆうとしているさま。世俗にとらわれないさま。

で、諦感です。

私は数年前からテレビをほとんど見ず、マスコミ情報を見るとすればネットだけになりました。

娯楽も、ユーチューブなどで、間に合ってしまいますし。

そのユーチューブなんですが、ユーチューブプレミアムにしないと、コマーシャルが必ず入ります。

このコマーシャルの印象が、テレビで感じた時とまったく変わりません。

申し訳ありませんが、正直、うるさい。

かましい。

個人的な偏見ですが、不快指数がかなり上がる。

スキップで、飛ばせないのもあるし、飛ばすにしても、タップしなければならない。

大した手間ではなくても、やっぱりめんどくさい。

私は、たまたま、ある占星術関係の男性の方のチャンネルをよく見ます。

この方は、話し方も穏やかで、声もソフトできわめて視聴しやすく、楽です。

無論、内容が興味深いこともありますが、見ていてまったく疲れないし、睡眠導入にもなるかもしれない、と思えるくらいに快適です。

テレビでも、ビデオでも、ユーチューブでも、人によっては、せっかく内容がいいにもかかわらず、話し方や身振り素振りがあわただしかったり、高圧的だったり、妙な癖のある人がいて、視聴しているのがつらい、我慢できなくなってしまうものがあるのです。

本当に申し訳ないことなんですが。

そこへいくと、先の占星術の男性は、私にとっては、清涼剤のような存在です。

その方のユーチューブを視聴している時に、強制割り込みの形で、やかましい、けたたましいコマーシャルが入ると、わかってはいても、やっぱり、イラッ、ムカッとしてしまいます。

スポンサーありきだから、仕方ないことなのでしょうし、短い時間で人の耳目を集め、惹き付けなければならないから、致し方ないことなのでしょう。

が、私は人間ができていないので、つい、イラッが出てしまいます。

諦めるべきですけどね。

166_原仏9ー7

釈尊の生涯 を、
序章 原始仏典へのいとぐち
第一章 誕生と求道ー「スッタニパータ」(1)
第二章 悪魔の誘惑ー「サンユッタ・ニカーヤ」(1)

今まで見てきた、上記の中で、神様や悪魔など、特に神様がどのような位置付けであるかを、一応、振り返っておこうと思います。

軽く通読をして、そして、今回ゆっくり目に見直してきたのですが、やはり、自分としては、今一つスッキリしないというか、モヤモヤしたままです。

残念ながら。

しかし、ともかく、形式にだけでもまとめてから、次に行きたいと思います。

まず、釈迦の誕生に関して、(アシタという)仙人とヴェーダ経典での三十三天とされる、三十三人の神々と帝釈天が出ていました。

そして、出家を経て、修行者となってからは、釈迦の悟りを妨げようと、悪魔や悪魔の娘達が出てきました。

で、中村さんによると、釈迦が悪魔の娘達を追い払い尽くしたのち、その覚悟(これこの文脈での意味がよくわからないのですが)のもとに、人々に教化活動をはじめられたとされています。

さらに、教化活動には、梵天という神様が懇請、つまり、懇願した形となっています。いわば、梵天が後押しをしたように書かれています。

で、161_お断り で書いたように、これらの存在は、何らかの固有の意志を持つ霊的な存在であり、釈迦や経典作者にとっては、対話ができる、明らかに認識可能な存在としました。

そうでないと、たとえであれ、空想であれ、何であれ、いちいち、頭の中での変換翻訳作業を強いられてしまい、めんどくさいことこの上ないし、不自然なこときわまりないからです。

釈迦の生涯の重要な節目(中村さんは、バッセージという、私のような教養がない者からすると、まったく知らなかったような言葉を使っている。あまり一般的とは思えないんですけど)とされる、誕生、出家、降魔(修行中、そして悟ってからも悪魔を退け続ける)の三つにも、これらの存在は出ている訳です。

これだけ、彩りとして花を添えるように、霊的な存在が出ている。しかも、中村さんからすると、釈迦の生涯で重要とされる節目が、これらの存在によって彩られている訳です。

これらが、釈迦や弟子の教えなどとしてお経の形で伝わって来ている。

これを、当時も現段階も、その文明水準で証明できないからと言って、不問とする、無記とするのは、いかがなものでしょうか。

逆に言えば、これらの存在をすべてなかったものとすると、どうなるか、ということです。

ただ・・・。

こうしたものを扱うには、それこそ聡明で、高潔で、まれに見る人格者でなければ、つとまりませんが、そうなると・・・。

あるいは、キツネだ、タヌキだ、ヘビだ、ガマだ、と幽界の生物を崇めて、憑依(ひょうい)されるはめになったり、霊的能力の見せ物扱いや、その自慢合戦などで、本来の霊性開発の道から遠く外れる弊害があることを、釈迦はすでに見越していたからかもしれませんが・・・。

まあ、何にしろ、無記扱いにしながら、それを多彩な彩りに用いるという、何ともいえない状況になっている、とは言えます。

残念ですが、教養のない私には、現段階では、この程度しか読み取れません。

残念ですけれど。

165_原仏9ー6

前回の、164_原仏9ー5 のサンユッタ・ニカーヤにある第七篇第二章・第四節の、子のかたちをした悪鬼、の話について雑記します。

あそこに出てくる老いたバラモンの男性を、仮に、オチ(←老いた父の略として)さんとします。

勝手ながら、お釈迦様のことも便宜上、釈迦と書かせて頂いているので、彼のこともオチとさせてもらいます。

あの話での、釈迦のやり方についてです。

釈迦のあのやり方は、オチの息子達の良心と体面維持(つまり保身)に働きかけ、オチを大事にさせようとするやり方に見えます。

オチの息子達は、それまで裕福な家庭で大事に育ててくれた父親の恩を仇(あだ)で返すように、世話になる時だけは機嫌をとっておいて、もう、世話にならなくても自立できるとなったとたんに、厄介者として、家から追い出したんですよね。(注1)

釈迦があのような詩句を公会堂でオチに唱えさせた狙いは以下の2点でしょう。

その行為自体を自らの良心に照らし合わせて、気持ちを改めさせることが、まずは1点目ですね。

いわば、内発的な行動をさせるんですね。

神様の分霊を本体とする肉体人間として、神様の子として、自らの行いを心から悔い改めるように、自然にもよおす行いに働きかける訳です。

これこそ、内もよおしという、仏の道という宗教的な。

2点目は、公会堂で、その近隣を含めた公衆の面前で、自分たちのしたところの、人で無しの行為を曝(さら)されることで、まわりから、悪く見られることを避ける、つまり、悪評を立てられたり、社会的に制裁を受けたり、何かと人づきあいがしづらくなり、暮らしにくくなることを避けるための、保身のためですね。

どちらかというと、韓非的な利害打算をにらんでの唯物論的な。(注2)

何か、あの文面から見る限りは、この2点目の狙いがほとんどのように読めます。

なぜなら、よからぬしれ者、などと、近隣の人々をも含めた公衆の面前で、あのような非難の言葉を投げつけるということは、息子達の心に切々と訴えかけるとか、諄々と諭すには、程遠いとしか思えないからです。(注3)

公衆の面前でショックを与えられたために良心に目覚めるというのは、あまり、自然な成り行きには思えないんですよ(個人的な見方かもしれませんが)。

つまり、心から、ああ、自分たちは実の父親に対して、何て愚かなことをしたんだ、ひどいことをしたんだ、としみじみと反省する感じがあまりしないんです。

あくまでも、外発的な行動であるかのような。

衆目の監視の目さえなければ、本当に行動を改めるかどうか、きわめて疑わしいような。

まあ、私の独断と偏見かもしれませんが。

もし、彼らが、本当に、真にこのように反省するようになるのは、自らが同じ立場に置かれた時、すなわち、息子も生まれて自分たちもやがては親になり、そして長い時を経て、老いた父親になって、同じように捨てられた時だ、と思うんですよ。

その時にこそ、はじめて父親の気持ちが身に染みてわかる、というよように。

遠い将来、自分たちが父親と同じ境遇に置かれた時、すなわち、悔しく、つらく、悲しい思いを味わわされた時に、はじめて、心の芯から、オチの、年老いて捨てられた父親の気持ちがわかると考えられる訳です。

ああ、自分たちは、かつて、こんなにひどいことを父親に対してしてしまっていたのか、なんてひどいことをしたんだ、と。

仮に、1点目の良心の呵責に訴える側面を内発的なものとすると、2点目の側面は外発的なんですね。(注4)

そうしたくない(父親を引きとってこれまでの態度を改め反省して大事にすることはしたくない)としても、世間体があるから、仕方なしにやる形の。

これ、あれに似ていると思うんですよ。

霊性開発における段階に。

例えば、よからぬ行為、真善美に悖る行為をする場合に照らし合わせてみると。

その行為をすると、他人から反撃を食らうとか、バチが当たる、その結果を恐れて、行為を思いとどまる、踏みとどまる、のは、消極的で外発的なんですね。

するよりは、しないほうがいいに決まっていますが、やや、いやいやというか、仕方なしにやめている感じがある訳です。

霊性の開発段階としては、かなり低いですよね。

自分達が社会的に不利な立場ににならないように、身の回りの利害得失だけを最優先して立ち回ることと同義だから、真善美に悖る業想念による典型的な行為が本質ですからね。

そうした業想念をすべて取っ払って、神様の分霊を本質とする者として、自然に行わない、オチの息子達の例でいうなら、親を大事にするにまでは、全然至っていません。

つまり、神様の子として、本来あるべき形からは、遠くなっている訳です。

で。

中村さんとしては、おそらく、良心の呵責に訴える事例として、取り上げられたと思うんです。

中村さんも偉い学者さんで、素直で温厚そうな良い人に見えますし。

ただ、私のような、ひねくれた、へそ曲がりから見ると、韓非的に、保身に重きを置いて見てしまうんですよ。

しかも、こうした見方のほうが、霊性の開発の段階としてみても、納得しやすい気がするんです。

中村さんのお考えは、今となってはわかりませんが、この点をどのようにお考えなのか、もう少し詳しく書いて頂けたらありがたかったなあ、と思いました。

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(注1)厄介~やっかい~①手数がかかりわずらわしいこと。また、そのさま。めんどう。
(用例)厄介な話。
②世話を受けること。
(用例)友達の家で、二、三日厄介になる。
ここでは、①の意。

厄介払い~厄介者や厄介な物事を追い払うこと。

厄介者~①他人の迷惑となりわずらわしい人。
(用例)厄介者扱い。
②他人の世話を受ける人。居候(いそうろう)。食客

食客~しょっかく~①他人の家に
客として待遇され、養われている人。
②居候。

なお、食客は、しょっきゃくとも読む。

(注2)韓非~かんぴ~中国、戦国時代末期の思想家。韓非子は尊称。権力主義的な法治主義を唱える法家の思想を大成した。韓非子20巻はその論述・思想をまとめたもの。

(注3)諄々~じゅんじゅん~理解しやすいように丁寧に繰り返して説くさま。
(用例)諄々と諭す。

(注4)呵責~かしゃく~きびしくとがめせめること。責めさいなむこと。
(用例)良心の呵責に耐えられない。

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追記: 2020/11/12 05:43 〜訂正内容〜文中、下記の誤った部分を訂正しました。

誤)そうしたくない(父親を引きとってこれまでの態度を改め反省して大事にする)としても、

正)そうしたくない(父親を引きとってこれまでの態度を改め反省して大事にすることはしたくない)としても、

なお、本文全般にわたって、以下の、内発、外発の言葉を含め、表現や書き方を改めたり、書き換えを数ヶ所にわたって細々と行いました。

内発~外からの刺激によらず、内部からの欲求に促されて自然に行動を起こしたり、ある状態にいたったりすること。←→外発

外発~外部からの力によって、やむなく行動を起こしたり、ある状態にいたったりすること。←→内発